自由な休日
六月の終わり。
梅雨の重たい雲は相変わらず空の大部分を覆っていたものの、
その日は珍しく、朝から一滴の雨も降っていなかった。
薄い灰色の雲の向こう側には、
輪郭のぼやけた太陽の光がヴェール越しのように淡く透けて見えていて、
たっぷりと湿気を含んだ初夏の風が、
街路樹の青々とした葉を静かに揺らし、
ささやき合うような音を立てていた。
それはユキにとって、滅多に訪れない貴重な休日だった。
今夜は夜勤のシフトもない。
誰かと会う約束もない。
今日中に片付けなければならない
義務や予定だって、何一つとしてない。
いつもなら、そういう日は一歩も外に出ず、
狭い自室で静かに過ごすことが多かった。
お気に入りの小説をめくる。
ただひたすらに泥のように眠る。
気が向いたら少しだけ近くを散歩する。
ユキの休日は、いつもその程度の、
静かで波風の立たないささやかなローテーションで満たされていた。
だからその日も、
昼過ぎまで心地よい気怠さに身を任せて眠った後は、
夕方まで部屋のベッドの上でのんびりと読書でもして過ごすつもりだった。
――少なくとも。
時計の針が、
昼の十二時三十分を指し示すまでは。
ドンドンドン! ドンドンドン!
突如として、薄い木製の玄関扉が激しく叩かれた。
かなりの強さだ。
というより、そこに住人がいることを微塵も疑っていない、
遠慮という概念をどこかに置き忘れてきたような
暴力的なまでのノック音。
ユキはベッドの上でガバッと跳ね起き、
まだ寝ぼけた頭で数秒間、フリーズした。
一体誰だろう。
じいさんなら、もっと控えめに短く叩くはずだ。
宅配便の配達員だとしても、ここまで非常識な叩き方はしない。
そして次の瞬間、扉の向こうから、
その疑問をすべて吹き飛ばすような声が響き渡った。
「ユキー! いるんでしょー!?」
聞き慣れた、突き抜けるように明るい声。
ユキは深い、深い溜め息とともに、
もう一度布団の中へと顔を埋めた。
ミナだった。
完全に予想通りだった。
「おーい、生きてるー? 生きてたら返事してー!」
さらにドカドカと扉が叩かれる。
このまま無視し続ければ、最悪の場合、
力任せにノブを破壊して入ってきかねない。
ユキは諦めてベッドから這い出た。
眠い。
頭の芯が痺れるほどに眠い。
昼夜逆転の夜勤生活を送る人間にとって、
昼の十二時半など、普通の人間にとっての
深夜二時か三時と同じ時間帯なのだ。
それをあの自由奔放な猫獣人が理解しているかどうかは、
非常に怪しかった。
ボサボサになった白銀色の髪を軽く手で整え、
眠気で半分閉じた目のまま玄関の鍵を開ける。
扉を開いた先には、やはりと言うべきか、
予想通りの黒猫の獣人が立っていた。
艶やかな黒髪。
その上でピコピコと元気に動く黒い猫耳。
夕暮れを閉じ込めたような金色の瞳。
そして、眩しいほどの満面の笑顔。
「あ、やっと出てきた! おはよー、ユキ!」
「……こんにちは、です……」
「うわ、目がすっごい据わってる。まだ眠そうだね?」
「……今起きました。たった今、ミナさんの爆音ノックで」
「そっか、よし!」
何がどう「よし」なのか、ユキにはさっぱり分からなかった。
ミナは当然の権利であるかのように、
ユキの肩の隙間からニュルリと部屋へ入ろうとする。
ユキは慌ててその細い身体を通せんぼするように手を広げて止めた。
「ちょっと待ってください。何の用ですか、一体」
「ん? 暇だから」
あまりにも堂々とした、一点の曇りもない即答だった。
ユキは思わず頭を抱えた。
「ミナさんが暇なのは分かりましたけど、私はゆっくり寝るつもりだったんです」
「でもユキも今日はお休みでしょ? 予定ないなら暇じゃん」
「そうですけど……」
「だから、外に出て遊ぼう!」
あまりにも、どこまでも自由だった。
ミナという存在は、本当に自分の感情に素直で、
ブレーキというものを知らない。
思い立ったらその瞬間に身体が動いている。
考えるより先に、直感で行動する。
それでいて、不思議と嫌な気持ちにさせられないのは、
彼女の行動の根底に邪気が一切ないからだろう。
ユキは少しの間、本気で悩んだ。
確かに眠い。
だが、これだけ盛大に叩き起こされた以上、
ここからミナを追い返して二度寝に突入できたとしても、
質の良い睡眠がとれるとは到底思えなかった。
何より、この黒猫が大人しく引き下がるとは思えない。
「……はぁ。それで、どこへ行くんですか?」
「知らない!」
知らない。
自信満々に胸を張って言い放ったくせに、
本人も目的地をこれっぽっちも決めていなかった。
ユキはそのあまりの潔さに、
毒気を抜かれて思わずプッと吹き出してしまった。
ミナはそれを見て、嬉しそうにニカッと笑う。
本当に、おもちゃを見つけた子供のように楽しそうな笑顔だった。
結局。
それから一時間後、二人は並んで街の雑踏を歩いていた。
空を覆う曇り空。
じっとりとした湿った風。
休日の商店街は、どんよりとした天気を吹き飛ばすかのように、
それなりに多くの人々で賑わっていた。
楽しそうに手を繋ぐ家族連れ。
笑い声を響かせる学生のグループ。
夕飯の買い出しに走る主婦。
様々な人生を抱えた人々が、カラフルに行き交っている。
ミナは、ユキの二歩ほど先を、弾むような足取りで歩いていた。
彼女の散歩は、本当に見ていて飽きないほど自由だった。
お洒落なウインドウを持つ服屋があれば急ブレーキをかけて立ち止まり、
どこからか香ばしい惣菜の匂いが漂ってくれば
クンクンと鼻を鳴らして引き寄せられる。
珍しい雑貨が並んでいれば、ガラスに額をくっつけるようにして眺める。
五分前に「あっちに行こう」と言っていた目的地が、
気まぐれに変わることも。
ユキは、キャスケット帽の奥の狐耳をパタパタと揺らしながら、
半ば呆れ、半ば感心しながらその後を追う。
「ミナさん、そんなにキョロキョロしてると迷子になりますよ」
「大丈夫、ならないって!」
「本当ですか? 土地勘あるんですか?」
「たぶんね! 直感が教えてくれる!」
まったく信用できない言葉だった。
その言葉通り、十分後にはミナは甘い匂いに釣られて
クレープ屋の前で完全に足止めを食らっていたし、
十五分後にはどこかレトロな怪しい雑貨屋の店先に並ぶ
怪獣の置物を真剣に見つめていた。
二十分後には、ショーウインドウに飾られたリアルな猫の置物と、
全く同じポーズで行く手を阻むように睨み合いを演じていた。
そして三十分後――二人が辿り着いたのは、
商店街の外れにある小さな児童公園だった。
移動距離の割には、寄り道が多すぎて全然前に進んでいない。
だが、ミナの表情はまるで
世界一周の冒険を終えたかのように満足げだった。
二人は緑に囲まれた木製のベンチへと腰を下ろす。
風が吹き抜けるたび、大きな木々がザワザワと音を立てて揺れた。
休日の公園は、とても穏やかな空気に満ちていた。
滑り台を転げ落ちる子供たちの甲高い笑い声。
飼い主に尻尾を振って歩く犬の足音。
芝生の上を転がっていくカラフルなボール。
どこにでもある、絵に描いたような平和な光景。
ミナは、いつの間にか買い込んでいたソーダ味のアイスバーを、
美味しそうにシャリシャリと口に運んでいる。
「……ねえ、ミナさん。楽しいですか?」
ユキが隣から尋ねると、ミナはアイスを咥えたまま、
一秒の躊躇もなく即答した。
「うん、めちゃくちゃ楽しい!」
迷いが一切ない。
彼女は今、この瞬間を本当に心の底から、
全身で楽しんでいるのだ。
「何がそんなに楽しいんですか。ただ歩いただけなのに」
「何がって、全部だよ全部!」
ミナはアイスを掲げて、空を指差した。
「このちょっと涼しい天気もさ、
行き交う人たちがみんなのんびりしてるのもさ、
この安くて冷たいアイスもさ」
そして、ミナは不意にアイスを引っ込めると、
金色の瞳をぐるりと回して、隣に座るユキの顔を真っ直ぐに見つめた。
「――それから、こうやって隣にユキがいることもさ。全部楽しい」
「っ……」
ユキは一瞬、言葉を失って身体を硬直させた。
ミナは相変わらず、何でもない、
当たり前の事実を口にしただけというような平然とした顔をしている。
そこには、相手をからかおうという悪気もなければ、
気恥ずかしそうな照れも一切ない。
ただ、自分の心の中に浮かんだ純度百パーセントの感情を、
そのまま言葉にして放流しただけ。
そういう人なのだ。
ユキは、急激に耳の先端が熱くなるのを感じ、
思わずふいっと視線を反対側の池へと逸らした。
帽子の奥で、白銀色の狐耳が
恥ずかしさに耐えかねてパタパタと激しく動いてしまう。
ミナはその可愛い反応を見逃さず、嬉しそうに声を上げて笑った。
「あはは! ユキ、今照れたでしょ!」
「……照れてません。風が強かっただけです」
「嘘だー、耳がめっちゃダンシングしてたもん!」
面白そうにケラケラと笑う姿は、
本当に気まぐれな猫そのものだった。
しばらくして、
アイスを食べ終えた二人は再びのんびりと歩き始めた。
今度は、街の中心を流れる緩やかな川沿いの遊歩道だった。
雨の多い季節だからだろう、川の水量はいつもより少しだけ増しており、
ゴオゴオと低い音を立てて流れている。
流れる水のせせらぎ。
頬を撫でる湿った風。
流れていく灰色の雲。
商店街の喧騒から離れた、静かで、
穏やかな時間が二人の間を流れていく。
すると、それまで前を歩いていたミナが、
不意にピタッと足を止めた。
「ねえ、ユキ」
「何ですか、ミナさん」
「ユキってさ……」
振り返った彼女の声は、いつもの軽薄なトーンとは違う、
珍しく少しだけ真面目な響きを帯びていた。
「はい」
「いつも、頭の中で色んなことを、いーっぱい考えてるよね」
ユキは、思わず小さく息を呑んだ。
完全に図星を突かれたからだ。
「……え。そうですか?
表に出してるつもりはなかったんですけど」
「分かるよ、耳見てれば。
いつも何かを難しくグルグル考えてる」
ミナは再び前を向き、川の流れる濁った水面をじっと眺めながら言った。
「考えすぎだよ、ユキは」
ユキは、自嘲気味に苦笑するしかなかった。
まったくもって、否定のしようがない。
確かに自分は、昔からずっと考えすぎるタチだった。
他人が自分をどう見ているか。
自分の発言で誰かが傷つかなかったか。
自分はこれからどう生きていくべきなのか。
過去の後悔、未来への漠然とした不安。
何でもかんでも、頭の中でこねくり回しては勝手に疲弊してしまう。
目の前にいるミナは、自分とは完全に正反対の生き物だった。
彼女だって、何も考えていないわけではないのだろう。
けれど、必要以上に過去に囚われたり、
まだ見ぬ未来に怯えたりはしない。
ただ愚直に、「今、この瞬間」を全力で呼吸している。
その圧倒的な生き方の差が、眩しかった。
「私はね」ミナは、川風に黒い猫耳を揺らしながら、ぽつりと言った。
「今日っていう日が楽しいなら、
もうそれだけで大正解だと思ってるんだよね」
「……もし、明日がものすごく嫌な日になるって分かっていても、ですか?」
ユキの問いかけに、ミナは少しだけ、
人差し指を顎に当てて考え込んだ。
時間にすれば、だいたい三秒くらい。
そして、やっぱり満面の笑みで即答した。
「その時は、その時になってから考える!」
ユキは思わず、声を上げて笑ってしまった。
お腹の底から、突き抜けるようなおかしさが込み上げてきたのだ。
ミナも、ユキのそんな笑い顔を見るのが嬉しいのか、
一緒になってニヒヒと笑う。
あまりにも単純で、あまりにも刹那的な考え方かもしれない。
けれど、その強烈なシンプルさが、いつも頭を重くしているユキにとっては、
少しだけ、いや、猛烈に羨ましかったのだ。
夕方。
気付けば、空を覆っていた灰色の雲の厚みが少しずつ薄くなり、
その隙間から、夕暮れのオレンジ色の光が
筋となって街へと差し込み始めていた。
二人は近くのコンビニで冷たい緑茶のペットボトルを買い、
近くのベンチに座って喉を潤した。
正直、ユキはひどく疲れていた。
それは、歩き回った距離のせいではない。
ミナという、次に何をするか一秒先すら予測不能な生き物の行動に、
一日中全力で付き合わされたからだ。
脳の普段使わない部分をフル回転させたような感覚だった。
だが。
その疲れは、決して嫌な種類のものではなかった。
むしろ、重かった頭の霞がすっきりと消え去ったかのような、
ひどく心地よくて、爽快な疲れだった。
その時、ユキのポケットの中でスマホが短く震えた。
画面を見ると、隣の部屋の老人からのメッセージだった。
開いてみると、そこには余計な挨拶も何もない、
ただ一言だけの短いテキストが表示されていた。
『ハルが、台所の高い棚の一番上に登って降りられなくなった。
早く来い』
ユキは堪えきれずに、ぶふっとお茶を吹き出しそうになった。
「何それ、見せて見せて!」と横から首を突っ込んできたミナも、
画面の文字を見るなり、「あははは! ハルちゃん何やってんの!」
とベンチを叩いて爆笑し始める。
「……帰りましょうか、ミナさん。じいさんが困ってます」
「うん、帰ろう! どっちが先にハルちゃんを救出できるか勝負ね!」
二人はベンチから立ち上がり、
夕暮れに染まり始めた街路を歩き出した。
アパートへと向かう、いつもの見慣れたはずの帰り道。
なのに、ユキの目には、その景色が昨日までとは少しだけ違った、
鮮やかな色合いを持って映っているように感じられた。
何故だろう。
今日は、特別なことは本当に何一つしていないのだ。
遠くの観光地へ旅行に行ったわけでもない。
派手な遊園地でアトラクションに乗ったわけでもない。
ただ、気まぐれな猫に引っ張られるようにして、
近所の商店街を歩き、
他愛のない話をして、
アイスを食べて笑い合った。
それだけだ。
たった、それだけのことだった。
それでも。
ユキの胸の奥は、これまでの人生のどの休日よりも、
温かい満足感で満たされていた。
アパートに到着し、
二階の老人の部屋の扉を勢いよく開ける。
そこには、案の定の光景が広がっていた。
小さなハルが、食器棚の最上段で「みゃ、みゃー……」と
情けない声で鳴きながら震えており、その下で老人が
「おい、馬鹿猫、危ないから大人しくしてろ!」
と顔を真っ赤にしてうろたえている。
「ハルちゃーーん! 今助けるからねーー!」
ミナが真っ先に突撃して笑い声を上げ、
ユキもその後ろで、お腹を抱えるようにして笑った。
老人は二人の姿を見るなり、
「お前たち、遅いぞ!」と盛大なため息を吐き出す。
いつも通りの、騒がしくて、愛おしい日常の光景。
開け放たれた窓の外では、六月の終わりの夕日が、
雲の隙間からアパートの室内を黄金色に優しく照らし出していた。
予定なんて何一つなかった、ただの退屈になるはずだった休日。
それでも、ユキは胸の内で静かに思う。
――こういう日も、悪くないな、と。
誰かと並んで歩いて。
誰かの言葉に耳を傾けて。
何気ない、生産性のない時間を一緒に笑って過ごす。
かつて、孤独の中でただ夜勤と睡眠を繰り返すだけだった
昔の自分なら、絶対に知るはずのなかった、眩しい時間。
そして、そんな世界の温かさをユキの手に握らせてくれたのは、
間違いなく、あの自由奔放な黒猫の獣人だった。
ミナに抱き上げられたハルが、
嬉しそうに「みゃお!」と喉を鳴らす。
老人が呆れたように首を振り、ユキはそれを見て、
静かに、けれど心からの笑みを浮かべた。
六月の終わり。
本格的な夏の始まり。
その穏やかで賑やかな夕暮れは、三人と一匹の笑い声を包み込みながら、
ゆっくりと、優しい夜の帳へと変わろうとしていた。




