優しすぎる客
六月の終わり。
梅雨前線はこの街の上空に居座り続け、
明ける気配は一向に見せなかった。
朝も、昼も、そして夜も、
空気は水分を限界まで含んでじっとりと湿っている。
街全体が目に見えない薄い水の膜に覆われてしまったかのような、
息苦しい閉塞感が何日も続いており、
行き交う人々の表情にも隠しきれない
疲労と鬱屈が色濃く滲み始めていた。
ユキはその日の夜も、
いつもと変わらずコンビニのレジカウンターに立っていた。
夜勤のシフトに入ってから数時間が経過している。
午後十一時。
店内には、まばらではあるが数人の客の姿があった。
冷蔵棚の前で心底疲れた顔をして
缶ビールとネクタイを緩める会社員。
新刊のコーナーで熱心に雑誌を立ち読みしている学生。
ATMの画面を無表情に操作する若い女性。
劇的なことなんて何一つ起きない、
どこにでもある平凡で、いつも通りの退屈な夜だった。
最近のユキの周囲は、隣の部屋にあの黒猫の獣人
――ミナが引っ越してきたことで、多少なりとも騒がしくなっていた。
けれど、彼女がもたらす嵐のような波風を除けば、
基本的な日常の歯車は変わらずに回り続けている。
老人は相変わらず子猫のハルに手を焼きながら振り回されているし、
ハルは相変わらず部屋の隅から隅まで弾丸のように走り回っている。
そしてミナは、相変わらずどこまでも自由奔放だった。
昨日など、前触れもなく老人の部屋の窓から不法侵入してきたかと思えば、
三十分ほど床に転がってハルと全力でじゃれ合い、
その後「あ、お腹空いたからお家帰るねー」とだけ言い残して
風のように去っていった。
自由にも程がある、と呆れるレベルだ。
だが、不思議とそれが嫌ではなかった。
むしろ、以前までの静かすぎてどこか寂しかった毎日に比べれば、
今の少し賑やかで予測のつかない日常を、
ユキは心のどこかで楽しいとすら感じていた。
そんな他愛のないことを考えながら、
深夜のルーティンである缶飲料の補充を終えてレジに戻ると、
チリーンと気の抜けた電子音を響かせて自動ドアが開いた。
一人の男性客が、トボトボとした足取りで店内に入ってくる。
年齢は四十代くらいだろうか。
くたびれた背広姿。
残業明けなのか、その顔には濃い疲労の影が張り付いていた。
けれど、眼鏡の奥にあるその目は、
不思議なほど穏やかで優しげだった。
男性はカツカツと革靴を鳴らしながら、
手早く選んだ幕の内弁当と緑茶のペットボトルを
レジカウンターへと差し出してきた。
「……これ、お願いします」
「はい、かしこまりました。お弁当、温めますか?」
いつも通りの丁寧な接客。
いつも通りのマニュアル通りの会話。
バーコードを読み取り、会計を済ませる。
それだけ。何の問題もない、どこにでもある「店員と客」の、
普通で良好なやり取り。
ユキはそう思っていた。
しかし、温まったお弁当を袋に詰めて手渡した、
その瞬間だった。
男性客は商品を受け取り、ふと足を止めると、
ユキの頭上で小さく揺れた白銀色の狐耳を見つめて、ぽつりと言った。
「……君さ、獣人、だよね」
ユキの身体が、皮膚の裏側から僅かに固くなるのを自覚した。
言われ慣れている言葉だ。
今更過剰に傷ついたりはしない。
だが、決して自分から好んで広げたい話題でもなかった。
ユキは愛想笑いの仮面を崩さないまま、静かに頷いた。
「……はい。そうですけど」
すると、男性はふっと目を細めて笑った。
それは、決して蔑みや嘲笑を含んだ嫌な笑顔ではなかった。
むしろ、心の底からユキを気遣うような、
本当に温かくて優しい笑顔だった。
「いやぁ、大変だろうね。色々と」
その真っ直ぐな言葉に、ユキは一瞬、
どう言葉を返すべきか分からず戸惑ってしまった。
悪意なんて、一ミリも存在しない。
それは痛いほどよく分かる。
男性はただ純粋に、この社会で生きづらさを抱えているであろう
「弱者」に対して、心からの同情と温かい眼差しを向けてくれているのだ。
だからこそ、ユキはどんな表情をしていいのか、
余計に分からなくなってしまった。
「……いえ。そんなことは」
「ほら、最近もニュースとか見てるとさ」
男性は、なおも親切心から言葉を続ける。
「駅前でデモがあったり、ネットでも色々騒がれてるじゃない。
生きにくい世の中だよね、本当に」
ユキは喉の奥を詰まらせながら、
ただ曖昧に、人形のようにコクリと頷いた。
男性は本当に、純粋な善意で、
良かれと思って話しかけてくれているのだ。
ユキを傷つけよう、貶めようという意図は、
彼の言葉のどこを探しても見当たらない。
だからこそ、
胸の奥に生じる拒絶反応を処理するのが、余計に難しかった。
「でもさ、負けずに頑張ってね。応援してるから」
男性は最後にもう一度、優しく微笑むと、
お弁当の袋を大切そうに抱えて夜の街へと帰っていった。
悪い人ではなかった。
むしろ、世間一般の基準から見れば、差別意識のない、
絵に描いたような「良い人」だったと言える。
だが。
彼が去ったあとの静まり返った店内で、ユキの胸の奥には、
鉛を飲み込んだような、何とも言えない小さな違和感と苦しさが、
澱のように重く残されていた。
深夜一時。
客足はすっかり途絶え、店内は深い静寂に包まれていた。
外を走る車の音も聞こえない、耳が痛くなるような静かな時間。
だが、ユキの頭からは、先ほどの男性客の言葉がどうしても離れてくれなかった。
『頑張ってね』
『大変だろうね』
それは紛れもない、他者への励ましであり、
応援であり、純度の高い優しさだ。
全部、その通りのはずなのに。
なのに、どうして自分の胸は、
こんなにも雑巾を絞られるように苦しいのだろうか。
理由は、本当は自分でもよく分かっていた。
あの男性は何も悪くない。
ただ、彼はユキという一人の存在を見た瞬間に、
無意識のうちに「獣人だから大変な、可哀想な苦労人」という
あらかじめ用意されたラベルを貼り付け、
その枠組みを通してしかユキを認識していなかったのだ。
レジを打っている『ユキ』という個人の人格ではなく、
ただの『獣人』という大きな属性。
それは、明確な悪意による差別ではない。
悪意から来る偏見でもない。
――善意だ。純粋無垢な善意。
悪意であれば、怒ることも、無視することも、
心の中で軽蔑することもできる。
けれど、向けられた刃が「優しさ」の形をしているからこそ、
それを拒絶することも、否定することもできずに、
ただ自分の心だけがじわじわと削られていく。
深夜二時。
再び、チリーンと自動ドアが開いた。
入ってきたのは、腰の曲がった高齢の女性だった。
この時間帯によく来る、近所に住む常連の客だ。
いつもおっとりとしていて、ユキにも優しく接してくれるお婆さんだった。
彼女はカゴにいくつかの惣菜を入れ、ゆっくりとレジへやってきた。
ユキがいつも通りに会計を終えると、
その女性は財布をパチンと閉め、顔を上げてしみじみと言った。
「あなた、本当に偉いわねぇ……。感心しちゃうわ」
ユキは少しだけ首を傾げた。
「え? 何がですか……?」
「だってぇ、あなたみたいな『獣人』なのに、
こうやって夜中まで真面目に働いてるじゃない。偉いわよ、本当」
女性は満面の、慈愛に満ちた笑顔だった。
本気で心の底からユキを褒め称えている。
そこには一滴の悪意も、皮肉も混ざってはいない。
だが。
ユキの口元は、今度こそ完全に、少しだけ引きつるように凍りついた。
(――獣人なのに)
その、何気なく使われた、あまりにも自然な接続詞。
言った本人は、何の深い意味も考えていないのだろう。
ただ、目の前の若い店員を少しでも励ましたくて、
褒めたくて口にした言葉に過ぎない。
だが、その言葉のトゲは、ユキの心の最も柔らかい部分を、
容赦なくチクリと突き刺した。
女性はユキの表情の微かな陰りに気付くこともなく、
「おやすみなさいね」と穏やかに微笑んで、そのままゆっくりと店を出ていった。
再び訪れる、冷たい静寂。
キは誰もいないレジカウンターにポツンと立ったまま、
動かない指先をじっと見つめて考えていた。
思い返せば、子供の頃からずっと、
こういうことは数え切れないほどあったのだ。
『獣人なのに、勉強がよくできるね』
『獣人なのに、すごく礼儀正しい良い子だね』
『獣人なのに、弱音を吐かずに頑張ってるね』
みんな、悪意はなかった。
本当に、親切心から言ってくれていた。
だが、それらの言葉の前提には、
常に巨大な『獣人』という記号が鎮座している。
ユキという一人の人間、その個人の努力や、
狐耳の少女としての個性ではなく。
まず最初に、超えられない壁としての『獣人』があり、
そのフィルターを通した後にしか、彼女自身の人格を見てはもらえない。
「~なのに」という言葉の裏には、
「本来、獣人とは劣っているものだ、問題を起こすものだ」という、
無意識の前提が透けて見える。
それが、ただひたすらに、どうしようもないほどに苦しかった。
朝の六時。
長い夜勤のシフトが終わり、ユキはコンビニの外へと出た。
外は相変わらず、どんよりとした低い曇り空だった。
雨こそ降っていないものの、
空気は水分を含んでずっしりと重く、肌にまとわりつく。
ユキは疲れた足取りで古びたアパートへと戻り階段を上った。
いつものように、二階の老人の部屋の前で足を止め、
小さくノックをする。
ガチャリと扉が開いた瞬間、案の定、
内側から灰色の小さな弾丸が飛び出してきた。
「みゃーーー!」
ハルだった。
いつもと何一つ変わらない、エネルギーの塊のような大音量。
案の定、今日も勢いが良すぎて
玄関のタタキでズサーッと派手に滑り、転がっている。
そして何事もなかったかのようにすくっと立ち上がると、
嬉しそうにユキの足元に頭を擦り付けてきた。
ユキはそれを見て、
張り詰めていた心が少しだけ緩み、フッと小さく笑った。
だが、部屋の奥の椅子に座っていた老人は、
ユキが顔を見せた瞬間に、その鋭い目を細めて小さく眉をひそめた。
「……おい。何かあったか、お前」
短く、ぶっきらぼうな言葉。
けれど、それは確実に見透かすような響きを持っていた。
ユキは驚いて、自分の頬に手を当てた。
「え……? じいさん、分かるんですか?」
「顔を見れば分かる。ひどく不細工なツラをしてるぞ」
それだけだった。
相変わらず口の悪い、けれどどこまでも鋭い老人らしさだった。
ユキが靴を脱いで部屋の中へと入ると、
そこには案の定、もう一人の先客がいた。
ミナだ。
彼女はいつの間にか(おそらく今朝も窓から)侵入していたらしく、
畳の上に大の字になってゴロゴロと寝転がっていた。
本当に、この部屋を自分の縄張りか何かだと思っているらしい。
「おはよー、狐さん。今日も夜勤お疲れさまー」
「……おはようございます、ミナさん」
ミナは寝転がったまま、足元にやってきたハルのお腹を
無造作にワシャワシャと撫で回している。
老人はいつものように、湯呑みを片手に熱いお茶をすすっていた。
窓の外から雨の匂いが漂ってくる、静かで、穏やかな朝。
ユキは長椅子に腰掛け、ハルを膝の上に抱き上げると、
何となく胸の奥に溜まっていたモヤモヤを、
堰を切ったようにぽつりぽつりと話し始めた。
深夜に来た、あの背広姿の優しい男性客のこと。
その後に来た、常連のお婆さんのこと。
二人とも、本当に親切で、自分に優しくしてくれたこと。
――なのに、どうしてか胸が締め付けられるように苦しくて、
傷ついてしまったこと。
自分の心の中に渦巻く、贅沢で、
けれど割り切れない感情のすべてを、吐き出すように語り終えた。
話し終えると、部屋の中に一瞬、小さな沈黙が流れた。
最初にその静寂を破ったのは、
畳の上で天井を見つめていたミナだった。
「あー、あるある。それ、めっちゃあるわ」
驚くほどの即答だった。
ユキが目を丸くして彼女を見ると、ミナは寝返りを打って、
頭の上の黒い猫耳をパタパタと不満げに揺らした。
「もうさ、耳にタコができるくらい言われるよ、私もそれ。
前のアパートの大家とかさー、会うたびに
『ミナちゃんは獣人なのに、いつも部屋を綺麗にしてて偉いわねぇ』
とか言ってくんの。マジで意味分かんないよね」
「ミナさんも……言われるんですか?」
「言われる言われる! あとさ、もっと単純な偏見とかもね。
『猫の獣人だから、やっぱりお魚大好きなんでしょ?』とかさ」
ユキは、そのあまりにもミナらしい例えに、
少しだけ毒気を抜かれて苦笑した。
「確かに、それはありそうですね……」
「でしょ? あと『やっぱり高い所に登ると落ち着くの?』とかね」
「……実際、好きなんですか?」
「うん、大好き。キャットタワーとかあったら絶対登る」
好きなのか、とユキは思わず心の内でツッコミを入れた。
ミナはケラケラと笑っていたが、
すぐにその金色の瞳から悪戯っぽい光を消し、
天井を見上げながら、いつもより少しだけ低く、真面目な声を出した。
「でもさ、問題はそこじゃないんだよね、ユキ」
「……うん」
「相手はさ、百パーセントの善意なんだよ。
本気で私たちを応援しようとして、優しい言葉をかけてくれてる。
……だからさ、こっちも怒れないし、言い返せないじゃん?
『そんなこと言わないでください』って突っぱねたら、こっちが悪者みたいになるし」
ミナは、大きなため息を吐き出して両腕を伸ばした。
「だから、余計に疲れるんだよねー。
悪口言われるより、ある意味タチが悪いっていうかさ」
ユキは、静かに胸の前で拳を握り締め、深く頷いた。
まさに、それだった。
自分の感じていた言語化できない苦しさの正体を、
ミナは見事に言い当ててくれたのだ。
老人は、二人の会話を遮ることもなく、
黙って湯呑みを見つめたまま話を聞いていた。
やがて、お茶を一口すすると、静かに口を開いた。
「……善意というのは、時に悪意よりも厄介なものだ」
短い言葉。
けれど、そこには長い人生を生きてきた老人ならではの、
ずっしりとした重みがあった。
「悪意であれば、輪郭がはっきりしている。
叩き潰すなり、無視するなり、こちらとしても対処の仕様がある。
……だが、形のない善意というのは、
向けられた側は断ることも、逃げることもできん。
相手の『良いことをしてやっている』という無垢な盾の前に、
こちらはただ、傷つくことを強要されるからな」
確かに、その通りだった。
あのコンビニの客たちは、ユキを助けようとし、励まそうとし、
彼らなりの最大級の優しさを差し出してくれたのだ。
だからこそ、「そんな前提で私を見ないでほしい」と
傷ついた声を上げることすら許されない。
老人は、空になった湯呑みをコト、とテーブルに置いた。
「だがな、ユキ」
老人は、ゆっくりと視線を動かし、
窓の外の灰色一色の空を見つめた。
「世界中の人間が、
お前をその『獣人』という枠にはめて見ているわけではないぞ」
「……え?」
ユキが顔を上げると、老人は振り返らないまま、
淡々と、けれど確かな温もりを宿した声で続けた。
「お前という存在を、種族のラベルではなく、ただの『一人の人間』として、
その中身を真っ直ぐに見つめている奴だって、この世には必ずいる」
「……」
「……お前が獣人だからではなく、
他でもない『ユキ』だからこそ、隣にいるような奴らがな」
部屋の中が、水を打ったように静まり返った。
さっきまで騒がしかったミナも、今は何も言わずに静かに微笑んでいる。
膝の上のハルだけが、自分の丸い尻尾を捕まえようとして、
ユキの服の上でくるくると呑気に回り続けていた。
老人は、
少しだけ照れ隠しをするように口元を綻ばせ、小さく笑った。
「――少なくとも、ここにいる私はそうだ。
お前が狐だろうが何だろうが、そんなことはどうでもいい。
お前は、ただのユキだ」
ユキは、もう何も言葉を返すことができなかった。
喉の奥が熱くなり、胸の奥からジンわりと、
強烈な温かさが広がっていくのを感じていた。
自分のすぐ目の前にはこんなにも不器用で、け
れど真っ直ぐに自分を見てくれる人がいる。
あの不愛想なコンビニの店長も。
目の前で熱いお茶を飲んでいるこの老人も。
自分の膝の上で無邪気に喉を鳴らしているハルも。
そして、畳の上でニヤニヤとこちらを見ているミナも。
みんな、ユキが「獣人だから」一緒にいるのではない。
ユキという、この不器用で静かな少女のことが好きだから、
こうして同じ時間を共有してくれているのだ。
そう気付いた瞬間、心がすっと軽くなった。
ふと窓の外へ視線を向けると、
あれほど分厚かった灰色の雨雲の隙間から、
ほんの僅かだけ、初夏の優しく白い光が地上へと差し込み始めていた。
梅雨はまだ、しばらくは明けないのだろう。
自分自身のルーツに関する悩みも、
これから先、完全に消えてなくなることはない。
悪意のない、悪気のない無垢な「善意」に戸惑い、
人知れず傷つくことも、きっとこれから何度も、何十回もあるはずだ。
だが。
そのすれ違う優しさの向こう側には、
自分の内面を、名前を、真っ直ぐに見つめてくれる大切な誰かが必ず待っている。
その光の存在を忘れさえしなければ、自分はきっと、
これから先もこの街で、自分らしく生きていける。
「あ、ハルちゃんまた転がったー! ウケる!」
ミナが声を上げて笑い、ハルが悔しそうに「みゃう!」と鳴く。
老人が「朝から騒々しい奴らだ」と、いつものように呆れたようにため息を吐く。
それを見たユキの口元からも、
自然と、柔らかな笑みが零れ落ちていた。
その笑顔は、さっきまでコンビニのレジ裏で張り付いていた
どの仮面よりも、遥かに、優しく自然な光を宿していた。




