猫系の女
六月の終わりが、すぐそこまで近付いていた。
梅雨前線は未だこの街の上空に居座り続けており、
明ける気配は一向に見せない。
空には重たく湿った厚い雲が一面に広がり、
街全体がどこか薄暗いヴェールに覆われたような日々が続いていたが、
それでも大自然の季節は確実に、
力強く夏へ向かって歩みを進めていた。
じっとりとした生ぬるい風の中には、春の優しさとは明らかに違う、
じりじりと肌を焦がすような熱気が混じり始めている。
午後五時。
ユキは遮光カーテンに遮られた薄暗い自室で、
ゆっくりと目を覚ました。
昨夜の夜勤を終えて早朝に帰宅し、
昼過ぎまで泥のように眠り続けていたため、
頭の芯にはまだ少しだけ重たい霞が残っていた。
けれど、今夜はいつもより深夜勤務のシフトまで時間に余裕がある。
ベッドの上に身体を起こし、
両腕を高く上げて小さく伸びをした。
サラサラとした白銀色の髪が、
重力に従って細い肩へと滑り落ちる。
それと同時に、キャスケット帽から解放された白い狐耳が、
眠気を振り払うようにぴくりと小刻みに動いた。
窓の外から聞こえてくる様々な「音の気配」を
無意識のうちに敏感に拾い集めながら、
ユキはゆっくりとベッドから立ち上がった。
それは、どこか物憂げで静かな夕方だった。
濡れたアスファルトを遠くで走り去っていく車のロードノイズ。
学校帰りに公園で無邪気に遊んでいる子供たちの高めの歓声。
どこかの家で気まぐれに響く犬の遠吠え。
雨上がりの街を吹き抜ける、湿った初夏の風。
どれもが、この街に来てからすっかり見慣れた、
愛おしい日常の一片だった。
ユキは冷蔵庫の残りで簡単な食事を済ませると、
いつもより少し早い時間だったが、外へ出るための支度を整えた。
出勤する前に、隣の老人の部屋へ少しだけ顔を出そうと思ったのだ。
もちろん、あの子猫の――ハルの様子が気になったというのもある。
最近のハルはますます元気が有り余っているようで、
部屋中を弾丸のように走り回っては、
じいさんをこれでもかと困らせているらしい。
口を開けば愚痴ばかりの老人だったが、
その愚痴をこぼす匂いはいつもどこか嬉しそうで、
楽しそうだった。
ハルが来てからの彼は、
確実に以前より表情の険しさが取れ、柔らかくなっている。
ユキは部屋の鍵を閉め、
古びたコンクリートの階段をゆっくりと降りていった。
アパートの敷地内へと足を踏み出すと、
湿った風が頬を撫で、濃厚な雨の匂いが鼻腔を満たす。
その、いつも通りの景色の真ん中で――
「んー……退屈だなぁ……」
不意に、聞き覚えのない、全く知らない声がすぐ近くから聞こえてきた。
女性の声だった。
若い、おそらく自分と同年代か、二十代前半くらいだろう。
どこか気だるげで、それでいて鈴を転がすような不思議な響きを持った声。
ユキは反射的に、声のした方向へと視線を向けた。
アパートの敷地内、薄暗い駐輪場のすぐ脇。
そこに、一人の先客が佇んでいた。
いや。
正確に言うならば、その彼女は普通の人間ではなかった。
ユキと同じ、「獣人」だったのだ。
艶やかな黒髪に、
どこか異国情緒を感じさせる細身のしなやかな身体。
そして何より、その頭の上には――黒い毛並みに覆われた、
二つの三角形の耳がちょこんと生えていた。
猫耳。
それは紛れもない、黒猫のルーツを持つ獣人の特徴だった。
ユキは思わず、その場で足を止めて硬直してしまった。
この世界において、獣人という存在自体は決して珍しいものではない。
だが、この地方の小さな街で獣人と偶然すれ違う確率は、
決して高くはなかった。
ましてや、自分と同じ同年代の女性の獣人と出会う機会など、
これまでの人生を振り返っても片手で数えるほどしかなかったのだ。
その猫耳の女性もまた、
ユキの放つ独特の気配に瞬時に気付いたらしい。
しゃがみ込んでいた姿勢から、ゆっくりと顔を上げた。
夕闇の中で怪しく、けれど美しく輝く金色の瞳。
どこか眠たげで、捉えどころのないマイペースな表情。
そして次の瞬間、彼女はユキの姿を認めるなり、
妙に軽快で緊張感のない声を上げた。
「おー、びっくり。……狐じゃん」
ユキは数秒の間、完全に思考をフリーズさせた。
狐。
確かに自分のルーツはその通りだし、間違ってはいない。
だが、初対面の相手から開口一番、
そんな風に種族名で呼ばれたことなど、
これまでの人生で一度もなかった。
黒猫の女性は、躊躇う様子も一切なく、
すたすたとおかしな足取りで近付いてくる。
遠慮という文字が彼女の辞書にはないのだろうか。
パーソナルスペースという概念を無視した、
あまりにもおかしな距離感。
まるで、何年も前からの気心の知れた
幼馴染にでも会ったかのような気軽さだった。
「珍しいね、こんなところで。……同類の獣人に会うなんてさ」
「……あ、ええと。何がですか?」
「だから、獣人」
女性は悪びれる様子もなく即答した。
確かにその通りではあるのだが、
ユキは戸惑いながらも、小さく頷くことしかできない。
女性はさらに一歩、ユキとの距離を詰めてきた。
そして、ユキの頭上にある白銀色の狐耳を、
じっと、食い入るように見つめ始める。
かなり近い。
香水の甘い匂いが鼻をかすめるほどに近すぎる。
耐えかねたユキは、思わず身を引いて半歩ほど後退した。
すると、その様子を見た女性は、
悪戯が成功した子供のようにケラケラと笑った。
「綺麗だね、その耳。グラデーションがさ」
「っ……」
突然のストレートな褒め言葉に、ユキは完全に困惑してしまった。
どう反応すればいいのか、
どんな顔をすれば正解なのかが全く分からない。
しかし、女性の突飛な言動はそこでは終わらなかった。
「ねえ、ちょっと触っていい?」
「だめです」
「わ、即答じゃん」
当然の拒絶だった。
初対面の、しかも道端で会ったばかりの相手に
大切な耳を触らせる人間などいるはずがない。
感覚が過敏な獣人であれば、なおさらそれはタブーに近い行為だ。
猫耳の女性は、あからさまに肩を落として
少しだけ残念そうな顔をした。
だが、本気で落ち込んでいるわけではないということは、
その金色の瞳の奥がまだ楽しげに揺れていることで一目瞭然だった。
すぐに元の眩しい笑顔へと戻る。
くるくると万華鏡のように表情が変わる人だった。
「私はミナ。よろしくね」
前触れもなく、彼女は右手を差し出して快活に名乗った。
ユキもその圧倒的なペースに巻き込まれ、
少し慌てながら自分の名前を返す。
「あ、ええと……ユキ、です」
「知ってるよー」
「えっ?」
ミナは平然と言い放った。
「だって私、ここのすぐ隣の空き部屋に、
一昨日引っ越してきたばっかりの住人だからね」
「ええっ!?」
ユキは本日何度目か分からない衝撃に目を丸くした。
そういえば、最近ずっと入居者を募集していた隣の部屋があった。
そこへ彼女が入ってきたのだろうか。
ミナは得意げに胸を張って続ける。
「入居の挨拶のときにね、管理人さんが言ってたんだ。
『隣のアパートに、耳のすっごく綺麗な、
おとなしい狐耳の可愛い女の子が住んでるよ』ってね」
「な、何ですかそれ……」
ユキは一気に顔が熱くなるのを感じ、
気恥ずかしさのあまりキャスケット帽を引っ掴んで目元を隠した。
帽子の奥で、狐耳が恥ずかしさに耐えかねて
僅かに外側へとパタパタと動く。
ミナはその一連の反応を見逃さず、
今度は本当に嬉しそうに、声を上げて笑った。そ
の屈託のない笑い方は、本当に自由気ままな猫そのものだった。
自由。
気まぐれ。
恐ろしいほどの距離の近さ。
次に何を言い出すのか、何を仕掛けてくるのかが全く読めない。
ユキがこれまで出会ってきたどの人間とも、
どの獣人とも違うタイプだった。
その、あまりにも奇妙な対峙が続いていた、その時だった。
「みゃーーーお!」
古びたアパートの二階から、聞き慣れた、
けれど驚くほど響き渡る高音が降ってきた。
ハルだ。
老人の部屋の窓から漏れ聞こえてきた、
いつもの元気いっぱいの鳴き声。
その瞬間、ミナの頭上の黒い猫耳が、
まるで見えない電波をキャッチしたアンテナのように
ぴくりと鋭く跳ね上がった。
驚異的な反応速度だった。
「……え、今のって、猫?」
ミナの金色の瞳が、
獲物を見つけた肉食獣さながらに爛々と輝き出す。
ユキの脳裏に、非常に、非常に嫌な予感が過った。
――あ、これは不味い。
そう確信した次の瞬間には、もう遅かった。
ミナの身体が、まるでバネのように弾けた。
本当に、文字通り全速力で走り出したのだ。
ユキが「待って!」と制止の声をかける間すらなかった。
彼女は疾風のごとき速度でアパートの階段を駆け上がり、
一直線に老人の部屋の前へと向かっていく。
「ちょっと! ミナさん!」
ユキが慌てて階段を駆け上がった時には、
もう完全に手遅れだった。
ミナは老人の部屋の扉のノブを迷いなく掴み、
勢いよくガチャリと開け放ってしまった。
当然、ユキがいつもノックだけで入れるように、
じいさんは鍵を掛けていなかったのだ。
そして――開かれた扉の向こうから、数秒の静寂ののち、
凄まじい大音量のシンフォニーが響き渡った。
「お、おい! 貴様、誰だ! 不審者か!」
まずは、老人の見たこともないほど動転した怒鳴り声。
「みゃお!? ぎゃーー!」
続いて、突然の侵入者に驚きつつも、
どこか興奮しているハルの鳴き声。
そして、それらすべてを掻き消すような、黄色い大歓声。
「うわあああ! なにこれ! ちっちゃい!
ぶち猫!? かわいいいいいい!!」
ユキは老人の部屋の玄関口で、
そのままガシッと自分の頭を抱え込んだ。
まだあの黒猫の獣人と出会って、
時計の針は五分も進んでいない。
それなのに、彼女はもう、この静かだったアパートの
コミュニティに尋常ではない大問題を引き起こしている。
恐る恐る部屋の中を覗き込むと、そこは案の定、
絵に描いたようなカオスな空間へと変貌を遂げていた。
ミナは玄関の畳の上に豪快に座り込み、
小さなハルをその細い両腕でぎゅーっと抱きしめていた。
当のハルはというと、驚いてはいるものの、
同じ「猫の匂い」がするミナに対して全く抵抗する素振りを見せていない。
むしろ、衣服のボタンにじゃれつくようにして、
どこか楽しげに喉を鳴らし始めている。
一方の老人は、いつもの椅子に腰掛けたまま、
完全に幽霊でも見たかのように呆然と固まっていた。
状況が、彼の老いた脳の処理速度を完全に超越してしまっている。
当然だ。
夕方にのんびりとお茶を飲んでいたら、
突然見知らぬ黒い猫耳の女が怒涛の勢いで不法侵入してきたのだから。
「だ、だから……貴様は一体、誰なんだと聞いている……!」
老人がようやく絞り出した二度目の問いに対し、
ミナはハルを胸に抱いたまま、満面の笑みを彼に向けた。
一点の曇りもない、太陽のような笑顔。
そして、彼女は堂々とこう言い放ったのだ。
「見れば分かるでしょおじいさん! 『猫仲間』です!」
「ね、猫仲間……?」
意味が分からない。
老人の表情が、明確にそう物語っていた。
じいさんは深く、部屋の空気がすべて
抜けてしまうのではないかと思うほどの、
人生最大級のため息を吐き出した。
後ろに控えていたユキもまた、全く同じ気持ちで天を仰いだ。
けれど、当の本人であるミナは、
そんな周囲の困惑や呆れなど一ミリも気にする様子がない。
ただひたすらに「かわいーねぇ、ハルちゃんっていうの?」と、
ハルの顎の下を慣れた手付きで撫で回し、ケラケラと笑っている。
本当に、どこまでも自由で、
重力を持たない風のような存在だった。
これまで、ユキの周囲には絶対に存在しなかったタイプの人間。
いや、獣人。
ハルもすっかり彼女のゴッドハンドが気に入ったようで、
ゴロゴロと部屋中に響くほどの音量で喉を鳴らし、
ミナの腕にすり寄っている。
老人は完全に抵抗する気力を削がれたように、
諦めの境地で長椅子の背もたれに深く身体を預けた。
ユキもまた、そのあまりにも突飛な光景に、
呆れを通り越して小さく苦笑するしかなかった。
そして、ユキは思ったのだ。
(……これから先、私たちの毎日は、
どうしようもないくらい騒がしくなりそうだな)
あの静かで、どこか寂しかった雨の日常へ。
また一人、新しく、強烈な個性を持ったお隣さんが、
遠慮なくずかずかと入り込んできた。
四角い窓の外では、相変わらず六月の終わりの曇り空が、
じっとりと街を濡らそうと広がっている。
本格的な夏は、もうすぐそこまで来ている。
そして、ユキたちが紡いできた静かな日常の景色もまた、
ミナという自由奔放で嵐のような猫獣人の登場によって、
これまでとは違う鮮やかな色彩を帯びながら、
大きく、新しく変わり始めようとしていた。




