第九話「もう一行」
その日の夜、アルネは夢を見た。
丘の上に立っている夢だった。でも夢の中の空は辺境の夜のように暗くて、星が多かった。手を伸ばせば届きそうなくらい、低いところまで光が満ちていた。隣に誰かが立っている気がしたが、振り向くと誰もいなかった。目が覚めたとき、窓の外はまだ暗い。
もう一度眠ろうとして、眠れなかった。
机の上を見た。本はもうない。返してある。当たり前のことだが、その当たり前が妙に広く感じた。机の上には教科書と筆記具だけが並んでいて、ここ数週間あった重みが消えている。
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翌日の昼休み、アルネは図書館へ向かった。
習慣というより、行き場所として染みついているのかもしれない。本がなくても、あの隅の席に座ると落ち着く。そう気づいたのは最近のことだ。入学してすぐの頃は、ただ人のいない場所として選んでいた。それが今は、落ち着く場所になっている。同じ場所なのに、意味が変わった。
棚の前を通り過ぎようとして、足が止まった。
草稿が斜めになっている。前回見たときと同じ角度で、背表紙の白い紙が少し飛び出していた。誰かが触ったのか、もとからそうなのか。アルネはしばらくそれを見てから、手を伸ばした。
返した本を、また借りた。
司書の先生がカウンターで貸出カードに日付を書き込みながら、今度は何も言わなかった。ただ少し、口元が動いた気がした。笑ったのか、それとも何か言いかけてやめたのか。どちらでもよかった。
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隅の席に座って、表紙を開く。
最後のページから読もうと思っていた。でも扉ページを開いたとき、最初の書き込みが目に入って、そのまま止まった。
「この本に書いてあることの半分は事実ではない。しかし全部嘘でもない。 テオ」
最初にこれを読んだのは、入学して三週間目の昼休みだったか。あのときは、この署名が誰のものなのかもわからなかった。癖字が何を意味しているのかも。今は違う。この傾いた字が、王城で観測用の外套を着て廷臣に顔をしかめられた人の字だとわかる。帰れと言っても翌日また来る弟子たちに諦めた人の字だとわかる。穴があったら入りたいと言いながら草稿を全部読んだ人の字だとわかる。
ページをめくった。本文を飛ばして、最後のページへ向かう。
テオの最後の書き込みを読んだ。
「——とは言え、全部読んだ。悪くはなかった。お前がこれほど私を見ていたとは知らなかった」
何度読んでも、この一行は最後が短い。知らなかった、で終わる。その先がない。テオがその後何を思ったのか、どんな顔で弟子を見たのか、書いていない。書かなかったのか、書けなかったのか。どちらとも取れて、どちらでもある気がした。
ページを閉じようとして、見返しに目が止まった。
見返しの白い紙に、薄い鉛筆の文字がある。
いつも最後のページを開くとき、テオの書き込みの方に目が行っていた。見返しまで確認したことがなかった。あるいは以前は薄すぎて気づかなかったのかもしれない。今日は光の角度が違う。斜めから差し込む窓の光が、鉛筆の跡を浮かび上がらせていた。外の雲が切れて、午後の光が強くなった、その一瞬だった。
身を乗り出して読んだ。
「私もこれを読んで、少し楽になりました」
テオの字ではない。代筆屋の字でもない。誰かが後から書き加えた、小さく丁寧な文字だ。インクではなく鉛筆で、だから薄い。いつ書かれたのかわからない。この草稿が学校の図書館に来てから書かれたのか、それとも誰かの手を経ているあいだに書かれたのか、確かめる術もない。
アルネはしばらくその一行を見ていた。
テオが書き込みを残した。弟子が草稿を処分しなかった。誰かがこれを読んで、少し楽になった、と書いた。その誰かも処分しなかった。だからこの本は今ここにある。アルネの手の中にある。
私もこれを読んで、少し楽になりました。
楽になった、ではなく、少し楽になった、という距離感が正直な感じがした。全部解決したわけじゃないけれど、少し。その「少し」の正確さが、なんとなくテオの書き込みに似ている。悪くない、とか、まあいい、とか。大きな言葉を使わない人たちの声が、この本には重なっている。
窓の外で、雲がまた光を遮った。見返しの文字が薄くなって、さっきより読みにくくなる。それでも確かにそこにある。
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その夜、また丘に行った。
今日は上着を持っていった。昨夜より空気が乾いていて、星がはっきり見えた。街明かりは変わらず空の端を白く染めているが、その内側に星の粒が思ったより多い。目が慣れるほどに、数が増えていく感じがする。草はまだ少し湿っていて、踏み込むたびに靴底が沈んだ。丘の頂から見下ろすと、校舎の窓の灯りがいくつか点いている。誰かがまだ起きている。
しばらく立っていると、草を踏む音がした。
振り向くと、レオがいた。上着のポケットに手を突っ込んで、少し息を弾ませている。坂を小走りで上ってきたのかもしれない。
「やっぱりここにいた」
当然のように言いながら、隣に並んだ。草を踏む音が止まって、また静かになる。
「なんで探してた」
「夕食のあと、どこ行ったかと思って」
アルネは少し間を置いた。食堂には行った。夕食も食べた。それからここへ来た。
「食堂のあとにここ来た」
「そうか。寮の部屋にも図書館にもいないから」
レオは空を見上げながらそう言った。探したのか、とアルネは思ったが聞かなかった。聞かなくてもわかる気がしたし、聞いてしまうと何かが変わる気もした。
「星、こんなに見えるんだな」
「街明かりで霞む。でも慣れると見えてくる」
「先生の問いの話、これか」
「うん」
短い会話が、間を置きながら続く。急かさない会話だった。沈黙があっても気にしない。それがレオと話すときの感じだと、アルネは最近わかってきた。
しばらく並んで空を見ていた。風が来るたびに草が揺れ、丘の下の木々がざわめく。遠くで何かが鳴いた。虫か、鳥か、判断がつかない。
「あの本、何の本だったの」
レオが、空を見たまま聞いた。
以前も同じことを聞かれた。古いやつ、と答えた。今日は少し違う答えが出てきた。
「星を見てた人の話」
「賢者の伝記?」
「そう。でも公式のやつじゃなくて、本人が余白に書き込んだやつ」
レオが少し考えてから、「面白そう」と言った。
「面白い」
アルネが答えると、レオが横を向いた。アルネも横を向いた。目が合って、どちらからともなく前を向く。
空の端で、星がひとつ流れた。見えたのかどうかわからないくらい、短い線だった。レオが何か言おうとして、やめた気がした。アルネも何も言わなかった。ただ同じ空を見ていた。
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寮に戻って、机の上に草稿を置いた。部屋は静かで、廊下の非常灯の光が扉の隙間から薄く差し込んでいる。見返しの鉛筆の文字を、もう一度開いて確かめた。
「私もこれを読んで、少し楽になりました」
アルネは鞄の中を探した。鉛筆が一本、底の方にある。取り出して、しばらく持ったまま、見返しを見た。
その一行の下に、まだ余白がある。
明日返す前に、考えよう。そう思って本を閉じた。鉛筆は手に持ったまま、布団に入る。
天井を見ながら、何を書くか考えた。長い言葉はいらない。テオも、弟子も、見返しの誰かも、みんな短かった。短くていい。本当のことだけ書けばいい。
目を閉じると、丘の上の空が浮かんだ。レオが隣にいた。星がひとつ流れた。
少しずつ、眠くなった。




