第十話「アルネ」
朝、目が覚めたとき、鉛筆がまだ手の中にあった。
握ったまま眠ってしまったらしい。手のひらに薄く跡がついている。六角形の断面の形が、皮膚に押しつけられた跡。アルネはそれを見てから、机の上の草稿を見た。昨夜考えていたことが、まだ頭の中にある。夢の中でも考えていた気がするが、どんな夢だったかは覚えていない。ただ起き抜けに、すっと言葉が浮かんできた。
これでいい、と思った。
長い言葉はいらない。テオも、弟子も、見返しの誰かも、みんな短かった。短くていい。本当のことだけ書けばいい。
着替えて、草稿を鞄に入れた。鉛筆も入れた。食堂へ向かうと、まだ人が少なかった。朝早く来る生徒たちが、静かに食事をしている。アルネは窓際の席に座って、いつもより早く食べた。窓から空が見えた。薄い雲が広がっていて、光が柔らかく散っている。雨にはならなそうだった。
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一時限目が始まる前に、図書館へ向かった。
廊下はまだ人が少ない。足音が石の床に響いて、自分の歩幅がいつもより少し速いのがわかった。急いでいるわけではないが、早く行きたかった。朝の授業前に図書館へ来る生徒はほとんどいなくて、扉を開けると中は静かだった。窓から朝の光が斜めに差し込んで、埃がゆっくり浮かんでいる。司書の先生はまだ来ていない。カウンターの椅子が空のまま、奥の机の上に昨日の続きらしい書類が広げられていた。
棚の前に立った。
鞄から草稿を出す。表紙の焦茶色の革が、朝の光の中で少し違う色に見えた。夕方の薄暗い中でばかり持っていたから、こういう光の中で見るのは初めてかもしれない。革の細かい凹凸が、斜めの光に照らされてはっきり浮き上がっている。使い込まれた質感。長い時間、誰かの手に渡り続けてきた跡が、表面のあちこちに刻まれていた。
返す前に、もう一度だけ開いた。
扉ページ。テオの癖字。
「この本に書いてあることの半分は事実ではない。しかし全部嘘でもない。 テオ」
最初にこれを読んだとき、署名が誰のものかもわからなかった。癖字の意味も、この本がなぜここにあるのかも。今は違う。この傾いた字が、観測用の外套で王城に謁見した人の字だとわかる。帰れと言っても翌日また来る弟子たちに諦めた人の字だとわかる。穴があったら入りたいと言いながら草稿を全部読んだ人の字だとわかる。
最後のページへ向かう。テオの最後の書き込み。弟子の後記。そして見返し。
「私もこれを読んで、少し楽になりました」
薄い鉛筆の文字が、朝の光の中でも読める。今日は雲が光を遮っていないから、昨日より少しはっきり見えた。誰が書いたかわからない。いつ書かれたかもわからない。でもこの本を手にして、少し楽になった人がいた。その人はそれを書いて、本を処分しなかった。
アルネは鞄から鉛筆を取り出した。
その一行の下の余白に、静かに当てた。
手が少し止まった。一秒か、二秒か。窓の外で風が来て、廊下から微かに人の声が聞こえた。授業前の生徒たちが動き始めている。
書いた。
余白が、少し埋まった。
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鉛筆をしまって、本を閉じた。
少しの間、表紙を見ていた。最初に手に取ったとき、これほど長く持ち続けることになるとは思っていなかった。返しに行くたびにまた借りて、何度も同じページを読んで、丘に立って、訛りが出て、レオと並んで星を見た。全部この本がきっかけだったが、テオは何も教えていないと書いた。ただ一緒に空を見ていただけだ、と。
そういうことかもしれない、とアルネは思う。
棚に戻した。少し力を入れすぎたのか、背表紙の白い紙が飛び出した。押し込もうとして、やめた。このくらいでいい。次に誰かが来たとき、目に入るくらいがいい。
図書館を出た。廊下に出ると、光が明るかった。雲が薄くなって、窓から差し込む光が白く強くなっている。中庭の木が見えた。葉が風に揺れるたびに、光が跳ねるように散る。一枚一枚が違う角度を向いていて、それぞれが違う光り方をしている。入学したとき、あの木に葉はなかった。枝だけだった。今は緑が茂って、風のたびに音を立てる。気づかないうちに、ずいぶん変わっていた。木も、アルネも。
廊下の先から声が聞こえた。
「アルネ」
レオが手を上げながら歩いてくる。朝の授業の教科書を脇に抱えて、少し寝癖が残っている。いつもより少し遅く起きたのかもしれない。
「図書館か」
「返してきた」
「あの本?」
「うん」
レオは少し間を置いてから、「そっか」と言った。それだけだった。それ以上は聞かなかった。アルネも説明しなかった。それだけで十分だった。
ふたりで廊下を歩いた。レオの歩幅は少し大きい。合わせるでも合わせないでもなく、並んで歩くと自然に同じくらいのペースになる。廊下の向こうからエリナが来て、アルネと目が合った。軽く頷いた。向こうも頷き返した。それだけのことが、以前より簡単にできた。
教室へ向かう。今日の天文概論で何を習うのかまだわからないが、手を挙げられるかもしれないとは思っている。訛りが出ても、それだけのことだと思えるようになってきた。全部解決したわけではない。都会育ちの会話のテンポに戸惑うこともまだある。でも少し、息がしやすくなっている。
廊下の窓から空が見えた。雲がほとんどなくなっていた。青い。辺境の空ほど暗くはないけれど、この空も悪くない。昼の光の中では星は見えないが、夜になれば見える。街明かりで霞んでいても、慣れれば見えてくる。テオが見ていたのと同じ空が、今日もここにある。
教室の扉を開けた。朝のざわめきが広がっている。アルネは自分の席へ向かった。窓際の席。入学した頃から変わらない席だが、ここから見える景色は少し変わった気がする。
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それから数十年が経った。
学校の図書館は、建物が建て替えられても棚の配置だけは変わっていない。司書の先代が「この並びを変えてはいけない」と言い残したからだという話が、今も職員のあいだに伝わっている。
ある日の昼休み、棚の奥に誰かが立っていた。
制服から察するに、入学したばかりの生徒だろう。背が小さく、肩が少し内側に入っている。棚の前で足を止めて、一冊の本に手を伸ばしかけて、また止まった。迷っているのかもしれないし、ただ表紙を見ているだけなのかもしれない。
背表紙の白い紙が、少し飛び出している。
その生徒の顔は見えない。でも本を取り出す前に、もう一度だけためらう様子があった。それから静かに手を伸ばして、両手で抱えるようにして取り出した。
重い、と思っているかもしれない。
重い。でも、その重さはどこか安心する。中身がぎっしり詰まっているものを抱えているときの、あの感覚。
図書館の窓から、光が斜めに差し込んでいた。埃がゆっくり浮かんで、その生徒の肩のあたりを通り過ぎていく。棚の外れの、薄暗い隅。誰にも気づかれないような場所に、その本はずっとあった。
ずっと、ここにある。




