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星詠みの余白  作者: ジェミラン


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第八話「訛り」

 翌朝、本を返しに行った。


 図書館のカウンターで草稿を差し出すと、司書の先生は受け取りながら表紙を一度見て、またアルネを見た。何か言いたそうな顔をして、でも何も言わなかった。貸出カードに返却日を書き込んで、はい、とだけ言った。


 棚に戻されるとき、背中越しにその音を聞いた。本が棚に収まる、小さく乾いた音。振り返らなかった。


 図書館を出ると、廊下の窓から朝の光が差し込んでいた。石の床に細長い影が伸びている。中庭の木が見える。葉がずいぶん増えた。入学したときはまだ枝だけだったのに、今は緑が茂って、風に揺れるたびに光の粒が散るように見える。気づかないうちに、ずいぶん変わっていた。


---


 天文概論は週に二度ある。その日は午後の二コマ目だった。


 先生は黒板に図を描きながら、先週の内容の続きを説明していた。惑星の運行と季節のずれ。現行の暦がどういう観測の積み重ねでできているか、という話。アルネは黒板を見ながら、草稿の中の一節を思い出していた。記録するうちに数字が積み上がった。数字が積み上がったとき、初めて形が見えてきた。テオが語った言葉を弟子が書き留めた、あの段落。


 先生が図を指しながら問いを出した。


「この観測データに、ある一定の誤差が生じるとしたら、どんな原因が考えられるか」


 教室が静かになった。難しい問いだ。教科書のどこかに答えが書いてあるわけではない。考えなければならない。


 アルネには、答えが見えていた。


 昨夜丘に立って、霞んだ星を見ていたとき考えていたことと、直接繋がっている。街明かりで空の端が白く染まっていたこと。目が慣れてくると見える星が増えたこと。観測する場所の環境が変われば、同じ空でも見え方が変わる。それが積み重なれば、数字にずれが生まれる。


 わかる。答えがわかる。


 でも手が動かなかった。


 頭の中で声が先に動く。訛りが出る。答えている途中で声が揺れる。その瞬間に誰かが首を傾げる。そういう記憶が、手より速く出てくる。


 黒板の図を見た。先生がもう一度同じ問いを言い直した。教室の中で、誰かが小さく息を吐いた。


 黙っていたら後悔したと思ったから言った。


 テオの癖字が、頭の中に浮かんだ。自信があったわけではない。ただ、黙っていたら後悔したと思ったから。


 手が、動いた。


 気づいたら挙がっていた。意志というより、体が先に動いた感じがした。先生がアルネの方を見た。教室の視線が集まる。


 口を開いた。


 声が出た。最初の一文で、訛りが出た。語尾が伸びた。止められなかった。でも止まらなかった。観測地点の環境の話、街明かりや大気の状態、季節による空気の透明度の違い。昨夜丘の上で考えていたことを、そのまま言葉にした。途中で声が揺れた。それでも最後まで言った。


 沈黙があった。


 一秒か、二秒か。アルネには長く感じた。


「そうです」


 先生が言った。それだけだった。黒板に向き直って、アルネが言った内容を図に加え始めた。誰も笑わなかった。首を傾げた人もいなかった。ただ先生が「そうです」と言って、授業が続いた。


 それだけのことだった。


 でも手を下ろしながら、胸の中で何かが変わった感じがした。崩れた、というより、ひびが入った、という感じ。薄い殻に、小さな亀裂が走ったような。


---


 授業が終わって、廊下に出たところでレオが後ろから来た。


「さっきの話、どういう考え方したの」


 隣に並んで、そう言った。責めているわけでも、試しているわけでもなく、ただ純粋に知りたそうな声だった。


 アルネは少し間を置いた。


「昨日、外に出て空を見てて」


 訛りが出た。今度は止めなかった。


「街明かりで星が霞んでて。でも目が慣れると少し見えてくる。場所とか時間で、見え方が変わるから」


 レオは聞きながら頷いた。急かさない。アルネが言い終わるのを待っている。


「なるほど」と言って、少し考えてから、「それ昨日思いついたの」と聞いた。


「丘に行って」


「丘って、東の外れの?」


「うん」


「夜中に?」


「眠れなくて」


 レオは少しの間黙ってから、「変なやつだな」と言った。笑いながら言ったから、馬鹿にしているわけではないとわかった。アルネも少し、口の端が動いた。


 廊下の突き当たりで道が分かれる。レオは右、アルネは左だ。「また」とレオが言った。アルネも「また」と言った。声に出して言えた。訛りがあっても、それだけ言えた。


---


 次の休み時間、アルネは図書館へ向かいかけて、足を止めた。


 本はもう、返してある。


 行く理由がない。でも足が向いた。習慣というより、もう一度あの棚の前に立ちたかったのかもしれない。


 図書館に入って、棚の前に立った。草稿は元の場所に戻っている。背表紙の白い紙が少し飛び出ていた。誰かがまた斜めに入れたのか、もとからそうだったのか。


 手は伸ばさなかった。ただ見た。


 この本があそこにあって、アルネが見つけた。昨夜丘に行った。今日手を挙げた。訛りが出た。誰も笑わなかった。レオが聞いてきた。変なやつだなと言って、笑った。


 全部繋がっている気がした。繋がっている、というより、全部同じことが形を変えているだけかもしれない。ただここへ来たかった。それだけのことが、積み重なって別の何かになっていく。テオが書いた言葉の意味が、今日は昨日より少しわかる気がした。


 隅の席を見た。入学してから毎日座っていた席。今日は座らなかった。


 図書館を出ると、廊下の光が明るかった。窓の外、中庭の木が風に揺れている。葉の緑が、午後の光を受けてそれぞれ違う角度で光っていた。同じ木なのに、一枚一枚が違う方向を向いている。以前はそんなこと、見ていなかった。

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