第七話「丘」
地図の切れ端を見つけたのは、草稿を読み終えた翌日の夜のことだった。
本はまだ鞄の中にある。昨日も今日も、図書館へ向かいかけて足が止まった。返しに行こうと思うたびに、もう一度だけという気持ちが先に立つ。結局また寮へ持ち帰って、机の上に置いた。夕食のあいだも、入浴のあいだも、なんとなく本のことが頭の隅にあった。
消灯時間が来ても眠れなかった。暗い天井を見ながら、最後のページの書き込みを思い返していた。何度も読んだはずなのに、もう一度確かめたくなる。テオの字の傾き、インクの濃さ、「まあいい」の四文字の丸みまで、目を閉じると浮かんでくる。こんなふうに誰かの字を覚えたのは初めてのことだった。
本を取り出して、表紙を開いた。最後のページを開こうとして、見返しに何かが挟まっているのに気づいた。薄い紙が、折りたたまれている。折り目が固い。長い時間そこにあったのだろう。草稿を何度も読み返していたのに、今まで気づかなかった。
広げると、手書きの地図だった。
建物らしき四角と道らしき線、いくつかの書き込み。紙の端が不規則に切れていて、もとは大きな地図の一部だったらしい。インクが褪せて、線の一部はほとんど見えなくなっている。アルネは非常灯の薄明かりに紙を近づけて、読み取れる文字を一つずつ確認していった。
一つだけあった。テオが観測地点として何度か記していた、丘の名前。
その地点に、短い書き込みがある。
「よく見える」
テオの癖字だった。それだけで、それ以上の説明はない。よく見える。だから来た。テオらしい、と思った。
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地図を折りたたんで草稿に戻し、本を閉じた。机の端に置いて、窓の外を見る。隣室から声は聞こえない。廊下も静かだ。寮全体が、息をひそめているような時間だった。
もう一度地図を取り出して、広げた。
学校の敷地を頭の中で広げてみる。この地図が描かれた時代に学校があったかどうかはわからない。建物の配置も変わっているだろう。でも地形は、そう簡単には変わらない。丘ならある。入学してすぐ、敷地を歩き回ったときに見た。東の外れに緩やかな傾斜がある場所。雑草が伸びていて、誰も使っていない様子だった。そのとき何とも思わなかった場所が、今は別の輪郭で見えてくる。
同じ場所かどうかはわからない。ただの草地かもしれない。でも確かめたかった。
眠れそうになかった。
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廊下に出ると、非常灯だけが低く光っていた。橙色がかった弱い光が、石の床をぼんやり照らしている。夜間に寮を抜け出すことがどの程度問題になるのか、アルネにはわからなかった。禁じられているかどうかも確認したことがない。とにかく足音を立てないように歩いた。
扉を静かに開けると、夜の空気が顔に当たった。昼間の残熱がない。思ったより冷たく、湿っている。上着を持ってくればよかったと思いながら、取りに戻る気にはなれなかった。
校舎の横を抜けて東側へ回る。足音が石畳から草の上に変わった。感触が柔らかくなる。街明かりが建物の向こうに滲んでいて、空の端が白く曇っている。自分の影が薄く地面に落ちていた。
傾斜が始まる手前で一度立ち止まった。草が濡れている。露が下りている。一歩踏み出すと靴底が少し沈んだ。構わず上った。傾斜は緩やかで、十数歩も歩くと視界が開けた。
街明かりが、思ったより近かった。建物の灯りが低く滲んで、空の端を白く染めている。星が見えないわけではない。でも霞んでいる。星座の形が判然としない。輪郭がぼやけて、どこからどこまでが同じ星の集まりなのか、確信が持てない。
辺境の夜は暗かった、とアルネは思った。空気が澄んでいて、街明かりがなかった。村の外れに出れば、空全体が光って見えた。手を伸ばせば届くのではないかと子どもの頃に思ったことがある。星が好きだったわけではない。そこにあったから見ていた。それだけのことだったが、あの暗さは知っていた。
こんな空は知らなかった。
でも空は同じだ。
当たり前のことだが、丘の上でしばらくそれを考えた。霞んでいても、街明かりが滲んでいても、この上を同じ星が動いている。百年前も、千年前も、ずっとそうだった。テオが毎晩見上げていたのもこの空で、アルネの村の外れから見えていたのもこの空だ。場所が変わっても、時代が変わっても、空はそのままそこにある。
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草稿の本文の中に、観測について書かれた段落がある。テオが自分の言葉で語った数少ない部分のひとつで、弟子が書き留めたものだ。
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師は言われた。暦をつくることが最初の目的ではなかった。ただ毎晩空を見ていたら、同じ空が違う顔をしていることに気づいた。気づいたから記録した。記録するうちに数字が積み上がった。数字が積み上がったとき、初めて形が見えてきた、と。
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その欄外に、癖字がある。
「正確に言えばもっと単純だ。毎晩ここへ来たかった。それだけだ」
本を手元に持っていなくても、いくつかの書き込みは字の形ごと覚えていた。丘の上に立ちながら、その一行が浮かんでくる。
毎晩ここへ来たかった。それだけだ。
暦をつくるためでも、賢者と呼ばれるためでもなく。ただここへ来たかった。来たかったから来た。弟子の章にも王城の章にも、テオが何かをめざして動いているところは出てこない。いつも気づいたらそこにいた、という書き方だった。毎晩丘へ来て、空を見て、記録した。それだけのことが積み重なって、形になった。
アルネが今夜ここへ来た理由を、うまく言葉にできない。地図に「よく見える」と書いてあったから、というのは事実だ。でもそれだけで眠れなくなって、夜中に寮を抜け出すほどのことかどうか。ただ来たかった、というのが一番近い気がする。理由というより、そういう気持ちがあった。それだけのことかもしれない。
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風が止んで、しんとした時間があった。遠くで何かが鳴いた。虫か、鳥か、判断がつかない。体が芯から冷えてきた頃に、ようやく坂を下りる気になった。
戻り道で空を一度見上げた。さっきより星が少し多く見える。目が慣れてきただけかもしれないし、雲が少し動いたのかもしれない。どちらでもよかった。見えている、それで十分だった。
寮に戻って、机の上の草稿を見た。地図の切れ端が少し飛び出している。丁寧に押し込んで、本を鞄に入れた。明日こそ返しに行こう。今度こそ。
布団の中で目を閉じると、霞んだ星と街明かりが混ざった空が浮かんだ。靴底に残る草の湿った感触がまだある気がして、しばらくそれを確かめていた。
テオが見ていた空はもっと暗かっただろう。星の数も見える形も違う。でも空は同じだ。同じ空が、ずっとここにある。そのことが、どういうわけか、少し温かかった。




