第六話「草稿の謎」
今日、名前を知った。
天文概論の前に、先日ノートを渡した男子が声をかけてきた。「また聞いてもいいか」と言いながら、「俺、レオっていうんだけど」と付け加えた。当然こちらの名前も聞かれた。アルネ、と答えた。訛りは出なかった。名前に訛りは関係ないから、当たり前といえば当たり前だが。
レオは「変わった名前だな」と言った。馬鹿にした感じではなく、ただそう思ったから言った、という声だった。アルネは少し考えてから、「辺境の方の名前だから」と答えた。それだけ言えた。
レオは「へえ」と言って、席に戻った。
廊下の窓から空が見える。うろこ雲が西から流れてきている。雨になるかもしれない、と思いながら席についた。
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図書館に着いて本を開いたとき、草稿の残りページが思ったより少ないことに気づいた。
第四章の後、弟子の手による短い章がもう一つあって、それで終わりだ。「後記」という題がついている。代筆屋の筆跡が、ここだけ少し力を抜いたように見えた。長い草稿の末尾に差し掛かって、書き手も緊張がほぐれたのかもしれない。
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この草稿を書き始めてから、三年が経った。師が王城より戻られた後も、師の許可なく書き継いでしまったことを今更ながら恥じている。それでも筆を止められなかったのは、師のことを誰かに伝えたかったからではなく、自分が忘れたくなかったからだと思う。師と並んで星を見た夜のこと、師が黙って空を見上げているときの横顔、怒ったように見えて実は呆れているだけだとわかるようになった頃のこと。これを書いている間だけ、そういうものが手の届くところにある気がした。完成した暁には師に捧げたい。受け取ってもらえるかどうかはわからないけれど。
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そこで本文は終わっている。
アルネはしばらく、その最後の一文を見ていた。受け取ってもらえるかどうかはわからない、と弟子は書いた。でも実際には渡した。渡して、テオは受け取った。この草稿がここにある以上、そういうことになる。
欄外に、テオの癖字がある。
最後のページにしては珍しく、書き込みが少ない。余白の上の方に一行、力のある筆跡で、
「なぜこれを私に見せた。穴があったら入りたい」
そこで一度途切れて、下の方に続きがある。インクの濃さが変わっていた。別の日に書き足したのだろう。字が少し丸みを帯びて、怒りではない何かになっている。
「——とは言え、全部読んだ。悪くはなかった。お前がこれほど私を見ていたとは知らなかった」
アルネは本を膝の上に置いた。
テオは穴があったら入りたいと言いながら全部読んだ。まあいい、と言いながら書き込みを続けた。そして最後に、お前がこれほど私を見ていたとは知らなかった、と書いた。
弟子はこの本を処分しなかった。捧げて、受け取ってもらって、書き込みを読んで、それでも手放さなかった。だからこの草稿はここにある。
なぜ学校の図書館に、とはまだわからない。弟子の手から誰かの手へ、誰かの手から別の誰かへ、どういう経緯でここまで流れてきたのか。でも今アルネが手に持っているのは確かで、テオの癖字は確かにここにある。
窓の外を見ると、うろこ雲が広がって空の半分を覆っていた。光が柔らかく散っていて、図書館の床に薄い影の模様を作っている。雨になるかもしれない。テオが観測をしていた頃も、こういう空があっただろう。雲の形を見て、明日の天気を考えていた夜があっただろう。
アルネは扉ページを開いた。
「この本に書いてあることの半分は事実ではない。しかし全部嘘でもない。 テオ」
最初にこの一行を読んでから、もう何日経っただろう。あの頃より少し、テオのことがわかる気がする。わかる、というより、輪郭が見えてきた、という感じ。怒りっぽくて、でも拒みきれなくて、言えないことを余白に書いて、弟子に全部読まれて穴があったら入りたかった人。
お前がこれほど私を見ていたとは知らなかった、と書いたテオの気持ちを、アルネは少し想像した。見られていたことへの照れ、弟子への驚き、そしてたぶん、悪くない気持ち。テオならきっとそう書く。悪くない、と。
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鐘が鳴った。
本を閉じて立ち上がる。今日で草稿は読み終えた。残りのページはあとがきと白紙だけだ。でも本はまだ手元にある。返すのが、少し惜しかった。
図書館を出ると、廊下に雨の匂いがしていた。窓の外、中庭の木が風に揺れている。葉が増えてきた。先週より確かに多い、濃い緑。アルネはしばらくそれを見てから、廊下を歩き出した。
鞄の中でテオの本が揺れる。
弟子はこれほど師を見ていた。テオはそれを知らなかった。見ている側には見えているものが、見られている側には見えない。そういうことがある。
廊下の先でレオが手を上げた。アルネも小さく手を上げた。それだけのことが、なぜか今日は自然にできた。




