第五話「弟子の話」
天文概論の席に着いたとき、エリナがこちらを見た。
目が合った。アルネは思わず視線を落とした。エリナは何も言わなかった。授業が始まって、先生が課題を回収して、それだけだった。責められたわけでも、無視されたわけでもない。それでも斜め前の背中がずっと、視界の端にあった。
昼休みになって、足早に図書館へ向かう。
廊下の窓から中庭が見えた。先週は枝だけだった木に、小さな葉が出始めている。緑というより黄色に近い、透けるような色。気づかなかったのか、なかったのか。おそらく少しずつ出ていたのを、今日初めて見た。
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昨日、第三章の末尾にあった弟子の付記を読んだとき、草稿はそこで終わりかと思った。「本稿はここで一旦筆を置く」とあったから。
でもページをめくると、続きがあった。
紙の質が少し変わっている。同じ代筆屋の筆跡だが、インクの色がわずかに違う。日を改めて書き継がれたことが、紙の手触りからも伝わってくる。冒頭に短い書き出しがあった。
「師が王城より戻られた。ようやく続きを書く機会を得た。以下、師の帰還後の日々について記す」
テオは王城から帰ってきた。弟子はまた草稿を書き始めた。そしておそらくテオは、この続きも読んだ。欄外を見れば、癖字がまた始まっている。
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第四章の題は「教えを継ぐ者たち」とあった。
代筆屋の筆跡が、今日はどこか温かみを帯びているように見える。書いた弟子の気持ちが滲んでいるのかもしれない。テオのもとに集まった弟子たちのことを、愛情を込めて書き綴った章だった。
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賢者のもとには、その名声を慕って各地から若者が集まった。賢者は惜しみなく知識を分かち、弟子たちは師の薫陶を受けてそれぞれの地へ旅立っていった。賢者の教えはやがて国の隅々にまで広まり、星を読む術は今や多くの人々の手に届くものとなっている。師の名は弟子たちの中で永遠に生き続けるだろう。
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余白の癖字は、「各地から若者が集まった」のくだりからすでに始まっていた。
「弟子を取った覚えがない」
きっぱりした一行。続きは少し字間が開いて、
「観測をしていたら横に来て黙って手伝い始めた人たちがいた。帰れと言っても翌日また来る。何度言っても来る。諦めた」
アルネは思わず「諦めた」の三文字を指でなぞりそうになった。紙に触れる寸前で手を止める。百年以上前のインクだ。
欄外の下の方に、字が変わって続きがある。怒りが少し抜けた、静かな筆跡になっていた。
「彼らは私の言うことをよく聞いたが、私は何も教えていない。一緒に空を見ていただけだ。それでも彼らがそれぞれの場所で星を眺めているかと思うと、悪くない気持ちになる。それだけのことだ」
アルネはその一節をゆっくり読んだ。もう一度読んだ。
悪くない気持ちになる。
テオにしては珍しい書き方だ、と思う。良い、とは書かない。でも悪くない。その距離感が、なんとなくテオらしかった。
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章の後半は弟子のひとりが書いたらしい手記の引用で構成されていた。観測の様子、テオの日常の断片、師の言葉として記憶しているいくつかのこと。そこにも、テオの書き込みが入っている。
「この部分は誰に断って載せたのか」
困惑に近い筆跡で、それだけ。その横に、別のタイミングで書いたらしい一行がある。インクの濃さが違う。
「まあいい」
アルネはその短さに少し笑った。怒って、でも全部読んで、まあいい。日を置いて読み直して、そのとき書き足したのかもしれない。
テオという人は、結局いつもそうだ。呼ばれたくなかったと言いながら王城へ行き、帰れと言いながら弟子たちを受け入れ、まあいい、と書く。嫌だと言いながら、拒みきれない人。草稿の続きが書かれたということは、王城から帰ったテオのもとへ弟子がまたやってきて、また読ませたのだろう。そしてテオはまた読んだ。まあいい、と言いながら。
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鐘まであと少しというところで、声をかけられた。
「ちょっといい?」
顔を上げると、通路を挟んだ隣の席に同じ組の男子が立っていた。名前はまだ知らない。背が高くて、話し方のはっきりした都会育ちの雰囲気がある。
「天文概論の課題、ここ詰まってて」
教科書を開いてこちらに向ける。指が示している箇所を見て、アルネはすぐわかった。先週エリナが詰まっていたところと、似た種類の問題だ。
口が固まる前に、手が動いていた。
鞄からノートを出して、式を書く。声を出さなくていい。書けばいい。「こういう考え方もあるかもしれない」と書いて、ノートを差し出した。
男子はそれを覗き込んで、少しの間考えて、
「あ、そういうことか」
と言った。顔が明るくなる。「ありがとう」と言って、自分のノートに書き写し始めた。
それだけだった。短い、それだけのことだった。でも鞄に手をしまいながら、アルネは胸の中に何かが生まれているのに気づいた。悪くない、という感じ。言葉にするならそれくらいの、静かな感触。
テオが書いた「悪くない気持ちになる」という一節が、頭の中で重なった。
教えたわけでもない。ただ書いて渡しただけ。でも悪くない。それだけのことで、十分に悪くない。
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鐘が鳴った。
本を鞄に入れながら立ち上がると、さっきの男子がもう一度こちらを見た。軽く頷く。アルネも小さく頷き返した。
図書館を出る。廊下の窓から、また中庭の木が見えた。朝より葉が光っている気がする。昼の光が強くなったからだろう。それだけのことだが、朝見たときより好きだと思った。
鞄の中でテオの本が揺れる。
一緒に空を見ていただけだ、とテオは書いた。それだけで悪くない気持ちになる、と。
アルネにはまだ星は見えていない。でも今日、ノートに式を書いた。歩きながらも、その温かさがまだ胸の中にあった。




