第三話「嵐の前」
昨日の件は、思ったより簡単に片がついた。
天文概論の先生に廊下で呼び止められて、アルネは一晩考えた言い訳を全部忘れた。代わりに出てきたのは「すみません、図書館にいました」という、何の飾りもない本当のことだった。先生は少し目を丸くして、「次から声をかけなさい」とだけ言った。それで終わりだった。
拍子抜けするほど静かな決着だったが、廊下を歩きながらアルネは自分が少し、息をしやすくなっているのに気づいた。言い訳を飲み込んで黙っているより、本当のことを言った方が軽い。そんな当たり前のことを、十四になって初めて実感している気がして、少し情けなかった。
昼休み、図書館へ向かう足が昨日より速い。
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第二章の題は「嵐の夜」とあった。
代筆屋の筆跡が、いつもより少し力強く見える気がした。内容がそう読ませるのかもしれない。テオが若い頃に立ち寄った漁村で嵐を予言し、出港しようとしていた船団を引き止めて救った、という話。教科書にも載っている有名なエピソードだ。本文はそれを丁寧に、英雄譚の作法で綴っている。
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賢者は空を一瞥するなり、村長のもとへ走った。その眼差しは既に嵐の到来を確信しており、村長もまたその迷いのない様子に只事ならぬものを感じ取ったという。賢者の言葉により船団は出港を取りやめ、その夜未曾有の嵐が沿岸を襲った。翌朝、無事な船を前に村人たちは賢者の足元にひれ伏し、感謝の涙を流したと伝えられる。
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余白の癖字は、本文が終わるか終わらないかのところから始まっていた。今日はいつもより字が大きく、少し勢いがある。
「予言ではない。昼過ぎから雲の形がおかしかったので港にいた人に声をかけた。それだけのことだ」
さらに続く。
「外れたらどうするつもりだったのか今でもわからない。運がよかっただけだ。足元にひれ伏されたときは穴があったら入りたかった」
アルネは小さく息を吐いた。穴があったら入りたかった。それはそうだろう、と思う。
欄外の下の方に、字が小さくなってもう一行ある。急いで付け足したような、それでいて他の書き込みより慎重に書かれた感じのする一行。
「ただ、声をかけたのは正解だったと今でも思っている。自信があったわけではない。ただ、黙っていたら後悔したと思ったから言った。それだけのことだ」
アルネは顔を上げた。
図書館の窓から、中庭が見える。今日は気づかなかったが、中庭には木が一本立っている。まだ葉が少なく、枝の形がはっきりと空に刻まれている。その向こうに校舎の壁、窓、カーテンの色、屋根の継ぎ目。昨日まで、窓の外をこんなふうに見たことはなかった気がする。
黙っていたら後悔したと思ったから言った。
アルネには昨日のことがある。先生に本当のことを言ったとき、少し息がしやすくなった、あの感覚。言い訳を飲み込んで黙るより、本当のことの方が軽かった。
でもあれは謝罪で、テオの話は違う。テオは誰かを助けるために声を出した。確信があったわけでもないのに。外れたら恥をかくだけでなく、信用を失う場面で。
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本文の第二章後半は、嵐の後のことを描いていた。村人たちがテオを引き止め、しばらく村に滞在することになった経緯。歓待を受け、やがて次の町へ旅立つテオを村人たちが涙で送り出した、という場面で章が終わっている。
余白は短かった。
「三日いるつもりが十日になった。早く観測に戻りたかった」
それだけだった。アルネはその短さが好きだった。
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鐘の音が遠く聞こえた。
今日は時計を気にしながら読んでいた。長針が十二時を回ったら本を閉じる、と決めていて、ちゃんとそうした。昨日と違って、心の準備ができている分だけ惜しい気持ちが大きかった。
本を鞄にしまって立ち上がったとき、隣の棚の向こうから声が聞こえた。
「ここ、どういう意味かわかる?」
振り向くと、同じ組の女子が教科書を開いて眉を寄せていた。名前は確か、エリナだったと思う。アルネと目が合って、少し困ったように笑う。
「天文概論の課題で。この式の導き方が全然わからなくて」
アルネは教科書を覗き込んだ。昨日の天文概論、出ていないから課題を知らなかった。でも問題は見ればわかる。むしろこの解き方はアルネが昨日丘で——いや、丘にはまだ行っていない。頭の中で考えていたことと繋がっている。
答えは出ている。
口を開きかけて、止まった。
訛りが出る。エリナの顔を見ている。都会の、はっきりとした話し方をする子の顔。首を傾げられたとき、どこを見ればいいかわからなくなる。そういう記憶が先に動いて、舌が固まる。
「……ごめん、急いでて」
そう言って、アルネは図書館を出た。
廊下は昼休みの人の流れで賑わっていた。アルネはその端を歩きながら、さっきの教科書の問題を頭の中で解いた。式はこう展開して、ここでこの定理を使えば、三行で出る。簡単だ。
鞄の中でテオの本が重い。
黙っていたら後悔したと思ったから言った。
アルネの頭の中でその一行が繰り返される。繰り返されるたびに、図書館に置いてきた言葉が少しずつ重くなる気がした。急いでて、と言ったこと。急いでなどいなかったこと。
次の授業が始まるまで、その重さはずっと消えなかった。




