第二話「テオという人」
図書館の隅の席は、今日も誰にも取られていなかった。
アルネは鞄を置き、昨日借りた本を机に出す。表紙の焦茶色の革が、窓からの薄い光を吸い込むように鈍く光っている。重い。両手で持つと、その重さがどこか安心する。中身がぎっしり詰まっているものを抱えているときの、あの感覚。
扉ページを開く。
「この本に書いてあることの半分は事実ではない。しかし全部嘘でもない。 テオ」
昨日も読んだ一行だ。今日読んでも同じことが書いてある。当たり前だが、少しおかしい気持ちになる。アルネが読んでいるあいだも、テオはずっとここにいる。そういう感じがした。
本文の第一章は「生い立ち」という題がついていた。代筆屋の整った筆跡が静かに続いている。
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テオドール・ヴァルハネス・シオンは、王都から遥か東の辺境にある小さな村で生まれた。幼い頃から星々への関心が人並み外れており、夜ごと丘へ通っては天空を観察し続けたという。その聡明さは村人誰もが認めるところで、「神童」と呼ばれ将来を嘱望されていた。
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余白に、癖字が入り込んでいる。
「神童ではない。他にすることがなかっただけだ。村に本が二冊しかなかったので両方読み終えてしまい、空を眺めるしかなかった」
アルネは顔を上げた。
上げた先には本棚がある。数えたことはないが、おそらく何百冊とある。この図書館の一列だけで、テオの村の蔵書を超えてしまう。
アルネの育った村には、本が何冊あっただろう。集会所に数冊、学校の小さな棚に十数冊、あとは家ごとにまばらに。アルネの家には父親の農業の記録と、母親が嫁いできたときに持ってきた薄い詩集が一冊。子どもの頃に両方読んだ。詩集は意味がよくわからなかったが、音が好きで何度も読んだ。
他にすることがなかっただけだ、とテオは書いた。
アルネも、村では本を読むしかなかった。読み終えれば外に出た。外に出れば空が広かった。夜は星が多かった。都会のように光が地面に這っていないから、空全体が光って見えた。別に星が好きだったわけではない。そこにあったから見ていた。
本文に戻る。
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テオは十四歳のとき、村を出て王都へ向かった。その際、村長から「村の誇り」として盛大に送り出されたという。
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余白:「村長に呼ばれて行ったら餞別を渡された。断るのも悪いと思って受け取ったが、そのまま出ていく流れになってしまい、気づいたら旅支度をしていた。自分で決めたのかどうか今でもわからない」
アルネは少し息を吐いた。笑う、というほどでもないが、口の端が動いた。
自分で決めたのかどうかわからない。それはアルネも同じだった。神童だと言われた。期待されているのはわかった。村の大人たちが集まって何かを決めていた。気づいたら都に来る話になっていた。嫌だとは言えなかった。嫌だとも思っていなかった。ただ、自分が決めた感じはあまり、なかった。
本文が続く。
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王都に出たテオは、優れた学者のもとで天文学を学んだ。その吸収の速さは師を驚かせ、三年で師の知識を超えたと言われる。
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余白:「師匠の知識を超えたかどうかは知らない。ただ師匠の教え方が大雑把だったので、自分で調べた方が早かった。先生が悪かったのか自分が悪い生徒だったのかはわからない」
さらに下に、少し字が小さくなって続いている。
「師匠には大変お世話になった。人柄はとても良かった。ただ教え方だけが壊滅的だった。本人には一度も言えなかった」
アルネは欄外の小さい字をもう一度読む。人柄はとても良かった。ただ教え方だけが壊滅的だった。本人には一度も言えなかった。
百年以上前に書かれた本の余白で、誰かが言えなかった言葉を今も言えないままにしている。
なぜか、それがひどく真実のように感じた。
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章の後半はテオが独立して観測を始めるまでの経緯が続く。余白の書き込みはまだある。ところどころに。本文が英雄の輝かしい側面を丁寧な筆で綴るたびに、欄外の癖字がするりと横から入ってくる。
アルネはそのリズムに慣れてきた。本文を読んで、余白を読む。本文の中の賢者と、余白の中のテオが、どんどん別人になっていく。いや、別人というより、距離が違う。本文の賢者は遠い。余白のテオは近い。教科書の肖像画の白髪の老人は、ここには存在しない。余白にいるのは、言えないことを余白に書いた人間だ。
次のページをめくろうとして、手が止まった。
窓の光が、変わっている。
午後の色だと思った次の瞬間、背筋が冷えた。午後の色ではない。傾いている。西に傾いた橙がかった光が、本棚の上の方だけを照らしている。
アルネは壁の時計を探した。長針が四時を過ぎたところにある。
頭の中で時間割を辿る。昼休みが終わるのが一時。魔法理論、実技基礎、天文概論——三つ。全部、終わっている時刻だ。
立ち上がろうとして椅子を鳴らした。司書の先生が顔を上げてこちらを見た。アルネは咄嗟に頭を下げた。謝るべきか、でも何を謝るのか、先生は何も言わずにまた手元に視線を戻した。
鞄を抱えて出口へ歩きながら、頭が言い訳を探し始める。具合が悪かった、気づかなかった、時計を確認していなかった——全部本当のことで、全部言い訳だ。本を読んでいた、とは言えない。読んでいたつもりもなかったのに、気づいたら三時間が消えていた。あの余白の癖字を追ううちに、時間というものをまるきり忘れていた。そんなことが自分に起きるとは思っていなかった。
廊下に出ると、授業終わりの生徒たちがもう流れていた。アルネはその中に紛れながら、明日先生になんと言うか、頭の中でずっと考え続けた。
鞄の底で、本が重い。
テオ、とアルネは心の中で呼んだ。怒りとも情けなさともつかない気持ちで、もう一度。
お前のせいだぞ、と思いながら。それでも、悪い気はまったくしなかった。




