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星詠みの余白  作者: ジェミラン


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第一話「隅の席」

 入学して三週間が過ぎていた。


 アルネは窓際の席に鞄を置き、教科書を開く前に教室をそっと見回す。朝のざわめき。隣の席の女子が友人と笑いながら何かを話し、後ろの列では昨日の実技の出来について声が上がっている。みんな、もうここに馴染んでいる。


 アルネだけが、まだ馴染めていない。


 授業についていけないわけではない。成績だけ見れば悪くない方だと思う。辺境の村では誰よりも読み書きが早かった。それが都会の魔法学校に来て、「一番」でもなく「普通」でもない、なんとも居心地の悪い位置に収まっている。


 問題は成績ではなく、会話だった。


 アルネの育った村では、語尾をゆるやかに伸ばす話し方をする。都会育ちの子たちは言葉をきっぱり切って話す。たったそれだけのことなのに、口を開くたびに自分の声が場違いに響く気がして、どんどん黙るようになった。


 一度だけ、授業で当てられた。答えはわかっていた。声に出した瞬間、隣の席の男子がわずかに首を傾げるのが見えた。笑われたわけでも、馬鹿にされたわけでもない。ただ首を、少し。それだけのことだったのに、アルネはそれ以降、手を挙げなくなった。


 昼休み、食堂は騒がしい。知っている顔はあるが、話しかけられる気がしない。アルネは食事を早々に済ませると、図書館へ向かった。三週間で身についた習慣だった。


 学校の図書館は広い。村の集会所より広い。天井まで届く本棚が何列も並んでいて、窓から差し込む光が埃をゆるやかに浮かび上がらせる。司書の先生が奥の机で何かを書いており、昼休みに来る生徒はほとんどいない。ここだけが静かだった。アルネにとって、今のところここだけが。


 いつもの席は棚の奥、窓から遠い薄暗い隅にある。読むつもりはなかった。ただ座っているだけでいい場所として選んだ席だ。背中を向ければ入口が見えない。入口が見えなければ、自分もここからは見えない気がした。


 その日も同じように座ろうとして、足を止めた。


 いつもとなにかが違う。棚の並びをぼんやり眺めて気づく。一冊、ずれている。背表紙が半分、棚から飛び出していた。誰かが出しかけてそのままにしていったのか、あるいは最初からそういう置き方だったのか。


 引き寄せられるように手が伸びた。


 思ったより重かった。両手で抱えるくらいの厚みがある。表紙は焦茶色の革張りで、金箔どころか題字の彫りさえない。背表紙だけ、白い紙に手書きの文字が貼ってある。くたびれた紙に、几帳面な筆跡でこう書かれていた。


「テオドール・ヴァルハネス・シオン伝 草稿」


 名前には見覚えがあった。この国の誰もが知っている。星詠みの賢者。現行の暦を作った人物。教科書の冒頭ページに肖像画が載っている白髪の老人。あの賢者の伝記だ。


 ただし「草稿」とある。アルネは首を傾げながら表紙を開く。


 中の紙は上質だった。黄ばんではいるが、虫食いも破れもない。丁寧に保管されてきたことが伝わってくる。書かれた文字も印刷ではなく、すべて手書きだ。それも相当に達筆な。一文字一文字が均整を保ち、行の乱れがひとつもない。どこかの代筆屋が仕立てたのだろうと思うくらい整った筆跡で、伝記の本文がびっしりと書き連ねられている。


 その余白に、まるで別人の字が食い込んでいた。


 本文の端、欄外、ときには行間にも。急いで書いたような、あるいは怒りをそのまま走り書きにしたような、傾いた字。大きさも揃っていない。かすれたかと思えば次の行で急に濃くなり、どう見ても代筆屋のものとは別の手が書いている。癖の強い、生きているような筆跡だった。


 扉ページの余白に、その字でこう書いてある。


「この本に書いてあることの半分は事実ではない。しかし全部嘘でもない。 テオ」


 アルネはしばらく、その一行を見つめた。


 テオ、という署名。背表紙の「テオドール・ヴァルハネス・シオン」という長い名前と、随分と違う。同一人物なのだろうか。いや、そもそもこの癖字は誰のものだ。本文を仕立てた代筆屋のものでないことは明らかで、かといって後世の読者の書き込みにしては妙に断言している。


「この本に書いてあることの半分は事実ではない」


 本人以外に、そう言い切れる者がいるだろうか。


 アルネは立ったまま、次のページをめくった。気づいたとき、背もたれに鞄がぶつかる感触がして我に返った。席に座っていた。いつの間に座ったのかわからない。窓の外を見ると、ちょうど昼休みの終わりを知らせる鐘が鳴るところだった。


 急いで立ち上がり、貸出の手続きへ向かう。司書の先生がカウンター越しに表紙を見て、少し目を細めた。


「これを借りる子、久しぶりだわ」


 それだけ言って、特に何も聞いてこなかった。アルネは礼を言って図書館を出る。


 廊下を歩きながら、背表紙をもう一度確かめた。「テオドール・ヴァルハネス・シオン伝」。そして扉ページの癖字。「テオ」。


 長い名前と短い名前。どちらが本物なのかはわからない。ただアルネは、その短い名前の方を心の中でもう一度繰り返した。


 午後の授業が始まる。アルネは鞄の中の重みを確かめながら、自分の席へ戻った。

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