39.お別れへの帰り道
窓から夕日が差し込む頃、二人は顔を見合わせてどちらともなく帰り支度を始める。
家では眼鏡をかけていない奏士を当たり前の様に見ていたが、オレンジ色の光を背に受け、制服を着て音楽室をバックにした彼は、美雨に別人の様な印象を与えた。
「奏ちゃん……?」
思わず名前を呼んで確認してしまうくらいに、絵になる佇まいだった。
「ん?」
何も普段と変わらない様な顔をして美雨に視線を向けたが、奏士の表情に美雨はなぜか心臓を鷲掴みにされた様に苦しくなった。
どうしてそんなに優しい顔をするのよ……
人間の目線で奏士を改めて見れば見る程に、新しい『大好き』を見つけてしまう。
これから永遠にその笑顔を見ることはできなくなるのに……
美雨は自分の力では止められなくなりつつある奏士への想いに、やり切れない気持ちが全身に絡みつき身動きが取れない。
「美雨? どうした?」
奏士の大きな掌が美雨の頭を包み込む。
「手……繋いでいい?」
自分の存在をもう誰一人として記憶に残す者が居なくなるのなら、最初で最期に奏士の恋人として……人間の一人の恋する女子高生として、大好きな人に素直に甘えたかった。
奏士は少し驚いた顔をしていたが、黙って嬉しそうに美雨の小さな柔らかい手をそっと握る。
そのままカバンを取り音楽室を出ようとドアを開ける。
小さな黒い人だかりが突然二人の目の前に入って来たかと思ったら、蜘蛛の子を散らす様にいなくなった。
「………」
ふふふと、二人は顔を合わせて笑いが零れる。
「もしかして、見られてたのかな?」
奏士はクスクスと覗いていた人達の顔を想像して笑う。
「みんな奏ちゃんの眼鏡外した顔見てびっくりしたんじゃない?」
奏士の本当の素顔を……、ピアノを弾く様を……彼の良いところを、少しの生徒だったとしても見て貰えて良かったと本心から思っていた。
「やべぇ……なんか、今更だけど、猛烈に恥ずかしい」
頭をポリポリ掻きながらはにかむ彼に、美雨は嬉しさと切なさが入り混じった。
自分だけが知る奏士が居なくなってしまう事を寂しく思うし、自分以外の人にも彼の素敵さを知ってもらった喜びが美雨を複雑な感情にさせる。
「今だけでいいから……私の事だけ、見てくれる?」
美雨のすがる様な瞳に、奏士はドキンと鼓動が高鳴る。
「ずっと……俺は美雨の事しか目に入らないよ……」
ふにゃりと嬉しそうに崩れた奏士の笑みが、美雨の心に溶け込んだ。
外に出て振り返る校舎は黄金に染まっていた。
ほんの少しの女子高生の生活が、美雨はとても楽しくて、もっともっと沢山の友達を作って、次々にやってくる行事を共に過ごしたかったなぁと後ろ髪を引かれる思いで奏士の自転車の後ろに乗り込む。
目の前に現れた奏士の大きな背中にぴったりと寄り添い手を回した。
短い間だったが、美雨にとって激しく心は揺れ動き、ひとりの男性を心から愛しそして愛された日々だった。
猫のままでは知り得ることのなかった煌めいた世界は、夢を見ていた様にそれは計り知れないほど幸福であって、目覚めれば跡形もなく儚く消えてしまう。
もしかしたら……何も知らずに死んでしまった方が幸せだったんじゃないか……?
奏士の温かい背中にもたれながら聞こえてくる雑踏の響きや騒めきは、美雨にとって奏士の側で生きている心地よい証だった。
それらが全く聞こえない無の世界に行くことに、自分の死を予感し名残惜しく思えてならなかった。
もう直ぐ目の前に上り坂が見えてくる。
何度も奏士歩いたこの道を登り切れば、オレンジ色の明るい家が見えてくる。
「奏ちゃん……。一緒に寄って欲しいところがあるんだ」
美雨は決心した瞳で、奏士の広い背中に話しかけた。




