第6話 侍、街で刀を抜く
「宗次さん、行きますよ!」
朱音はスマホをポーチに押し込み、坂を駆け下りた。
黒いケースを肩に担いだ宗次が、すぐ後ろについてくる。山を見上げていたときのあの顔が、頭から離れない。けれど今は、聞いている場合ではなかった。
「商店街には夕方の買い物客がいます。逃げ遅れた人がいるかもしれません!」
「承知した、主殿」
走りながら律に電話をかける。二回目の呼び出し音で、か細い声が出た。
「は、はい。どうしました?」
「律くん、配信の準備と、避難場所の情報をお願いします!商店街で小氾濫です!」
「しょ、小氾濫!?す、すぐ調べます。配信もこっちで見ます!」
「助かります。絶対に現場には来ないでくださいね!」
曲がり角の向こうから、人が次々と坂を駆け上がってきた。買い物袋を抱えたまま走る男の人も、片方の靴が脱げたままの女の人も、誰ひとり後ろを振り返らない。
大通りの先に、砂ぼこりが上がっていた。
◇
商店街の入口で、朱音は足を止めた。
いつもなら夕方の買い物客で賑わっている通りが、真ん中から割れていた。アスファルトがめくれ上がり、大きな穴が口を開けている。
その縁を、鉄のように黒光りする爪が掴んだ。
穴から這い上がってきたのは、軽自動車ほどもあるモグラ型の魔物だった。岩爪土竜だ。爪で地面を引っかくたびに、コンクリートの破片が跳ねる。
そのすぐ脇から、緑色のゴブリンが次々と這い出してくる。
店先の棚が倒れ、野菜が道いっぱいに散らばっていた。割れた看板の下で男の人が足を押さえ、その隣では女の人が額から血を流して座り込んでいる。
朱音は鞄から手持ちのカメラを出し、倒れた箱に立てかけて通りを映した。配信は律がつないでくれるはずだ。
「誰か!こっちに来ておくれ!動けない人がいるんだよ!」
八百屋の店先で、エプロン姿の年配の女性が手を振っていた。倒れた棚のそばから動けない数人をかばっている。
協会からの通知を開くと、近くの探索者への出動要請と、市街地での武器使用の許可が届いていた。応答を押すと到着の見込みが出る。一番近い探索者でも、十分以上かかる。
「なんでゲートじゃなくて、こんなところから……!」
追加の情報には、地下の古い用水路につながる穴が見つかったとあった。理由を考えるのは後だ。
「皆さん、そこを動かないでください!」
朱音は両手を突き出した。
透明な膜が広がり、八百屋の女性たちをまとめて包み込む。飛びかかってきたゴブリンが結界にぶつかり、指先に硬い骨の感触が返ってきた。
「おおっ、何だいこれ!?」
「結界です!中から出ないでくださいね!」
ゴブリンが爪を立てて結界を引っかく。破れはしない。けれど穴のほうでは、あの大きな爪がまた道路を砕いていた。
隣で金具が鳴った。宗次がケースの留め具に指をかけている。
「待ってください!外で抜いたら、今度こそ……!」
資格を取り消されたばかりの宗次には、探索者証も協会の通知もない。
宗次は朱音を一度だけ見て、留め具に指をかけたまま手を止めた。
「……承知した」
朱音は律との電話をいったん切り、茂木の番号を呼び出した。
出て、茂木さん。お願いだから出て。
「はい、協会鷹守支部、茂木です」
「水無瀬です!商店街にいます!宗次さんに刀を使う許可をください!」
「ええと、つまりですね、宗さんは資格が……え、商店街!?」
「分かってます!でも、ここには動けない人がいるんです!」
スピーカーにしたスマホを足元に置く。結界はまだ持っているが、ゴブリンが二匹、三匹とぶつかってくるたびに指先への衝撃が重なっていった。
「協会の人が来るまで十分以上かかるんです。結界が、それまで持つか……!」
岩爪土竜が頭を振った。爪に引っかかった看板が砕け、金属の破片がこちらへ飛んでくる。結界の外側で弾けた破片が、乾いた音を立てた。
右手の指先がしびれてきた。
宗次はケースに手をかけたまま、魔物を見据えて一歩も動かない。朱音が待てと言ったから、待っているのだ。
「茂木さん!」
「きょ、今日の当直責任者は、私なんです……」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「緊急時なら、責任者の判断で一時的に……でも、そうすると私が、その責任を……」
「私も説明します!記録も全部残しますから!」
少しの間があった。茂木の荒い息づかいだけが聞こえる。
「……分かりました。私が責任を持ちます。許可、出します!宗さんに、刀を……!」
「ありがとうございます!」
朱音は振り返った。
「宗次さん、許可が出ました!」
茂木との電話を切って律にかけ直し、片手だけ結界から離して鞄のドローンを放り上げる。ドローンは自分で浮かび上がり、朱音の頭上で止まった。
「律くん!武器を使うので、配信をドローンに切り替えてください!」
「は、はい!切り替えました!」
宗次がちらりと頭上を見た。
「此度は斬らぬ」
「はい!絶対ですよ!」
宗次はケースを地面に下ろし、自分で蓋を開けた。長大な太刀を鞘ごと引き出し、左手で鞘をつかんだ。
八百屋の女性が息をのんだ。
「ちょっと……その刀、本当に使うのかい?」
宗次は答えずに、分厚い刃を鞘から抜いた。
「凛丸、参るぞ」
小さな声だった。それでも足元のスマホには、もう文字が流れ始めている。
『また何か言った』
『なんて言ってるの?』
『SNSで見て飛んできた』
『避難情報どこ?』
『商店街で大太刀振れるの?』
『結界先生、後ろの人たち頼む!』
最初のゴブリンが跳びかかった。
宗次が地面を強く踏む。次の瞬間には太刀が斜めに振り下ろされていて、ゴブリンは一太刀で黒い霧になった。
横から来た二匹目には、足を踏み替えて腰を沈め、そのまま横に薙ぐ。刃が通り過ぎたところで、二匹目も消えた。
振りが速いわけではない。一太刀ごとに、重たい踏み込みの音が通りに響く。なのに魔物のほうが、自分から刃の届くところへ入っていくように見えた。
穴の縁に残っていたゴブリンまで、宗次は一匹ずつ片づけていく。朱音が見ていたかぎり、二度斬られた魔物は一匹もいなかった。
「う、嘘だろ……あれ、普通の刀なんだよな?」
結界の中で、男の人が声を漏らした。
「まだ出ないでください!大きいのが残ってます!」
朱音は前に出ようとした八百屋の女性を止め、ぶつかってくるゴブリンが減った隙に結界を厚くした。指先にまたしびれが走り、右腕が肘から重くなる。
ちらりと見た画面の同接は、三万を超えてまだ増え続けていた。
『えぐ』
『は?一撃?』
『さっきの刀の名前か?』
『人が危ないのに撮影すんなよ』
『↑武器使うときは記録義務あるんだよ』
『【固定】避難場所は市の案内を確認。現場に近づかないで』
最後の行は、律が固定してくれた案内だった。
ありがとう、と心の中でつぶやいたとき、足元のアスファルトがぐっと盛り上がった。
地中に潜った岩爪土竜が、結界のすぐ手前で頭を突き出したのだ。爪が街灯の根元を削り、太い柱がぐらりと傾く。
「まずい……!」
朱音は両手を突き出し、人々の頭上にもう一枚結界を広げた。倒れてきた街灯が結界の上に乗り、その重さが指にずしりとのしかかる。
手が震える。結界の縁が、細かくほつれ始めた。
「姉ちゃん、もういい!あたしたちは放っといて逃げな!」
「嫌です!そこを動かないで!」
岩爪土竜が爪を振り上げる。
振り下ろされる直前、結界と爪のあいだに宗次が割って入った。刃を寝かせて爪を受け流すと、逸れた爪が横の道路を砕き、破片が散る。
宗次はすぐには斬り返さなかった。腰を落としたまま、黒い爪をじっと見ている。ほんの少しだけ、首を傾けた。
何を見ているのか、朱音には分からない。
二度目の爪が持ち上がった。
「宗次さん、避けて!」
宗次は引かなかった。
地面を踏む。
その振動が、結界越しに朱音の足の裏まで伝わってきた。大太刀が下から大きく弧を描く。
刃が、鉄の爪に食い込んだ。
黒い爪が割れ、刃はそのまま太い前脚を抜けて、岩爪土竜の胴を真っ二つにした。
巨体は左右に崩れ、地面に落ちる前に黒い霧へ変わっていった。あとには割れたアスファルトと、深い穴だけが残る。
朱音は結界を保ったまま、長い息を吐いた。指先の感覚がほとんどない。
『は????』
『鉄の爪ごと斬ったぞ』
『何今の踏み込み』
『今来た、誰か三行で』
『お前今来るなw』
『あの人たち無事!?』
「生きてる……みんな、生きてるよ!」
八百屋の女性が結界の内側から叫んだ。
「お侍さん!あんた、あとでうちに寄りな!野菜ならいくらでも持たせてやるからね!」
宗次は太刀を下げたまま、そちらへ小さく頷いた。
サイレンが近づいてくる。朱音はようやく結界を薄くして、けが人に声をかけて回った。
通りの入口にパトカーが止まった。
駆けつけた警察官に探索者証を見せると、一人が無線で確認を取って頷いた。
「水無瀬朱音さんですね。出動の記録があります」
けれど、ほかの警察官たちは抜き身の太刀を持った宗次から目を離さない。
「そちらの方、探索者証を見せてください」
宗次が懐から身分保護証を出すと、警察官の眉が寄った。
「これは探索者証ではありませんね。なぜ市街地で刀を抜いているんですか」
「待ってください!協会の茂木さんから許可をもらっています!」
「協会からは、そんな連絡は来ていません」
警察官たちが左右に回り込んだ。宗次は抜き身の大太刀を手にしたまま、三人に囲まれて立っている。
朱音は足元のスマホを拾い上げた。配信は、まだ続いている。
正面の警察官が一歩踏み出し、腰のホルスターに手をかけながら声を張り上げた。
「刀を置きなさい!」




