第5話 侍、故郷を見る
腕を曲げると、袖が肘のあたりまでずり上がった。
夜の古民家の居間で、宗次は律に借りたジャージの袖を引っ張っていた。裾も足首に届かず、立ち上がるたびに膝のあたりが突っ張る。
「す、すみません。僕の服じゃ小さかったですよね……」
「借り物に文句は言わぬ」
宗次が腕を下ろすと、脇の縫い目が小さく鳴った。
律はそれを聞かなかったことにしたらしい。スマホを手に取り、さっきから何度も見ている動画をまた開いた。
「き、今日の近況報告、またコメントが増えてます。あの、読んでもいいですか?」
「うむ」
律は前髪を指で払い、画面に顔を寄せた。
『おじさん返して』
『いや今の方が侍っぽいだろ』
『カメラ見てる顔がずっと職務質問中』
『髭ってすげえ』
『泥の下にこれ隠してたのか』
『編集の人、仕事早すぎ』
「え、えっと……褒めてる人も、多いです」
「左様か」
律がスマホをこちらに向けた。画面の中で朱音が笑っていて、その隣に宗次自身が立っている。
昼に床屋の鏡で見た顔だ。だが画面の中の宗次は勝手に首を動かし、眉を寄せた。こちらが首を傾げても、同じようには動かない。
「……写し鏡の中で、それがしが動いておる」
「あ、これ、昼間に撮ったものです。そのときの動きが残ってるんです」
「昼のそれがしが、まだそこにおるのか」
「い、いるわけじゃないです!見えるだけです!」
宗次はスマホを受け取って裏返してみた。裏はただの黒い板だった。
「……妙な道具じゃ」
「そ、それより着替えですよ。その服、そのうち破けそうで……」
律は画面に服をいくつも並べて見せた。作務衣と甚平というらしい。宗次が一つを指さすと、律の指が素早く動いた。
「何着かずつ買っておきますね。今度はちゃんと大きいサイズで」
「宿では毎朝、着物を洗って干しておった。着る物は一つあれば足りるぞ」
「だから汚れてても臭くはなかったのか……」
律がぼそりと漏らした。宗次は首を傾げる。宿の裏の水道で水をかぶり、ついでに着物を洗うのは毎朝のことだった。髭や髪に絡んだ泥だけは、今日の床屋でようやく落ちたが。
「明日の昼前には届きます」
「一晩で届くと申すか」
「は、はい」
「……よほど足の速い者が運ぶのじゃな」
「たぶん、宗次さんが思ってるよりずっと普通の人です……」
◇
翌日の昼前、玄関で甲高い音が鳴った。
居間にいた宗次は、立てかけてあったケースに手を伸ばしかけた。音はもう一度鳴る。戸の向こうに人が一人立っている気配がした。
「律殿。戸の向こうに何者かおるぞ」
「は、はい!荷物です!チャイムです!」
律が戸を開けると、箱を抱えた男が「お届け物です」と頭を下げた。宗次も背筋を伸ばして頭を下げる。
「大儀であった」
「えっ?あ、ありがとうございます……」
戸惑った顔の男を見送って、律が箱を開けた。中には作務衣と甚平が色違いで何着も入っている。
作務衣に袖を通し、膝を曲げて腕を回してみる。袴に近い着心地で、ジャージのようにどこも突っ張らない。
「動きやすい」
「よ、よかった……」
ちょうどそこへ朱音がやって来た。
「こんにちは。あ、似合ってますね。準備できました?」
宗次は太刀が入ったケースを持ち、留め具を確かめてから肩に担いだ。
「参ろう、主殿」
「主殿はやめてください。律くん、留守番お願いしますね!」
律に玄関から見送られて、二人は門を出た。
◇
家から少し歩いた先の小さな駅に着くと、朱音は鞄を開けた。
「家の場所が分からないように、配信はここから始めますね。今日は街の中なので、ドローンじゃなくてこっちで撮ります」
取り出したのは手のひらほどのカメラだった。朱音はそれを自分たちのほうへ向け、声の調子を一段明るくした。
「こんにちは、アカネです!今日は宗次さんと街歩きです。先にお知らせなんですが、宗次さんの仮許可が取り消されました。半年は申請し直せないので、しばらく宗次さんとのダンジョン配信はできません」
宗次は改札の向こうに目をやった。
「主殿、何やら人が集まっておる」
「主殿はやめてください。……あ、本当だ」
すれ違う人が足を止め、こちらにスマホを向けている。格好は変わったはずなのに、顔を見て騒ぐ者までいた。
朱音が手元の小さな画面に目を落とした。
「コメントも読んでいきますね」
『殿こんにちは!』
『作務衣侍きた』
『半年は長いな……』
『違反は違反だし仕方ない』
『侍に電車は早すぎるだろw』
「駅の中は人が多いので、刀のケースはしっかり持っててくださいね」
「離すつもりはない」
朱音に小さな切符を渡され、改札へ向かう。前の人が通るたびに、腰の高さの小さな扉がぱたぱたと動いた。
宗次は手前で足を止め、腰を落とした。
「門番もおらぬのに、通す者を選ぶ門か」
「切符を入れれば通れます。ほら、ここに入れて……」
言われたとおりに切符を入れて一歩進んだところで、隣の改札が甲高い音を鳴らして扉を閉じた。
宗次は素早く身を返し、ケースを抱え直した。
「そっちは切符を入れ忘れた人です!宗次さんには何もしてません!」
通りかかった人がくすくす笑った。宗次は改札を一度振り返ってから、朱音についてホームへ下りた。
やがて入ってきた電車は、鉄の擦れる音を立てて目の前で止まった。長い体にいくつもの窓が並び、その中に大勢の人が詰まっている。
「……鉄の大蛇か」
「電車です。あの扉から乗りますよ」
人の流れに合わせて乗り込むと、ほどなく床が動き出した。宗次は両足を開いて踏ん張り、揺れに合わせて腰で受けた。天井から下がる吊り革には手を伸ばさない。
「宗次さん、そこにつかまってもいいんですよ」
「これしき、つかまるまでもない」
大きく揺れても、宗次の膝はぶれなかった。隣の客が慌てて吊り革を握り直すなか、座席の男の子が宗次の足元をじっと見ている。
「お兄ちゃん、なんでつかまらないの?」
「つかまらずとも立っておれるからじゃ」
「すごい。ぼく、すぐ転ぶよ」
母親が子どもを引き寄せて頭を下げたので、宗次も軽く会釈を返した。
鷹守駅で降りて駅前に出ると、朱音は小さな店に案内した。棚という棚に、握り飯も飲み物も菓子もぎっしり並んでいる。
「ここ、夜中も開いてるんですよ」
「夜通し商う店か」
「はい。働く人が交代するので、お店を閉めないんです」
「夜になっても、飯が買えるのか」
「買えますよ。お腹が空いたら、いつでも」
宗次は棚をゆっくりと見て回った。菓子の棚の前では、制服姿の子どもたちがどれにするかで笑いながら揉めている。
「……腹を空かせた子は、おらぬのか」
「全員とは言えませんけど……こういうお店は、どこにでもありますからね」
宗次は子どもたちが店を出ていくのを見送ってから、棚の前を離れた。
店を出た先の広場は、さっきよりも人が多かった。朱音がカメラの向きを直し、歩く速さを緩める。
正面の建物の上に、大きな看板が掲げられていた。文字の横に、何かの印が描かれている。
宗次の足が止まった。
「宗次さん?」
看板を見上げたまま動かない。ケースを支えていた手が下がり、親指だけが留め具にかかった。
「あれ、ONZグループの看板ですけど……宗次さん?」
返事はない。朱音は困ったように手元の画面を見た。
「コメントも来てます。えっと……」
『どうした?』
『急に固まった』
『看板に何かあるの?』
『今の顔ちょっと怖かったぞ』
しばらくして、宗次は留め具から指を離した。何も言わずに歩き出す。
◇
夕方、朱音は配信を終えてカメラを鞄にしまった。
帰りの電車を降り、古民家へ続く坂を上る。家々の窓にぽつぽつと明かりがともり始めていた。
「お疲れさまでした。今日は駅でもずいぶん見られましたね」
「うむ」
「今日いちばん驚いたのは何でした?電車ですか?」
「夜通し商う店じゃ」
「そっちですか。改札だと思ってました」
「あの門は、油断ならぬ」
「何もしてきませんってば」
朱音が笑って少し先を歩く。宗次はケースを担ぎ直して、その後に続いた。
坂の曲がり角を抜けたところで、家と家のあいだから山が見えた。
手前に低い峰が一つ、その向こうに二つ。右端の尾根が途中で少しくぼみ、さらに奥の山へとつながっている。沈みかけた日が稜線の上に残って、斜面を赤く染めていた。
宗次の足が止まった。
先を行く朱音の足音が遠ざかり、少しして止まる。
「宗次さん?どうしました?」
宗次は答えなかった。
肩のケースを下ろして、地面に立てた。
手前の峰から奥の山へ、目で稜線をたどる。くぼんだ尾根のところで、視線が止まった。
右手が固く握られる。古傷の残る手の甲で、指の節が白くなった。
「……鷹守の山じゃ」
「鷹守の、山……?」
宗次は足元に目を落とした。舗装された坂道に、頭の上を何本も走る電線。見たことのない形の屋根が、どこまでも並んでいる。
もう一度顔を上げる。山の形だけが、何ひとつ変わっていなかった。
「戻らねばならぬ。民を、姫を置いてきた」
朱音が小さく息を吸い、宗次の隣に並んだ。何か言いかけた口が、そのまま閉じる。
そのとき、朱音のポーチから鋭い電子音が鳴り響いた。
宗次の手が、反射的にケースの留め具へ伸びる。坂の下の人も、向かいの家の窓の中でも、同じ音が一斉に鳴っていた。遠くでサイレンがうなり始める。
スマホを開いた朱音の顔が、こわばった。
「……小氾濫警報。場所は、商店街です」




