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第4話 茂木、敗北する

送信完了の表示を見届けて、茂木和夫は眼鏡を外した。


夜の協会鷹守支部。事務室に残っているのはもう茂木一人で、明かりがついているのも自分の机のまわりだけだった。


額に当てたハンカチは、まだ一枚目なのにもう湿っている。


「……はあ」


宗さんが聞いたら、どんな顔をするだろう。


規則違反なのは確かだ。それでも、あの人が水無瀬さんを助けたことまで消えるわけではない。


とはいえ、上が決めたことに窓口係が逆らえるはずもなかった。連絡先として登録してある水無瀬朱音のスマホに、通知を送る。それが今夜の最後の仕事だった。


机には宗次の保護記録が開いたままになっている。


貼りつけられた写真には、泥と伸び放題の髭に覆われた男が写っていた。鼻の形さえよく分からない。


茂木はもう一度ため息をついた。


二週間前のことだ。


「侍が出たぞ!」


上層にいた探索者からそんな連絡が入ったとき、茂木はたまたま窓口で別の手続きをしていた。


どうせ撮影か何かだろうと思った。ところが地上に連れてこられた男は、撮影にしては汚れすぎていた。擦り切れた着物に古い鎧、泥だらけの草鞋。腰にはやたらと長い刀を吊っている。


「お名前をお願いします」


「鷹守宗次にござる」


「ご年齢は?」


「二十四じゃ」


茂木のペン先が止まった。


どう見ても四十手前だ。髭の奥で、目だけが妙に鋭い。


とはいえ本人がそう言うのだから、勝手に四十と書くわけにもいかない。年齢欄には「二十四(本人申告)」と書いておいた。


測定器に出た表示は【スキル:なし】【魔素反応:0】


「これ、故障ですかね」


測定係も首をひねっていた。スキルが出ない人はまれにいるが、魔素反応まできれいにゼロというのは誰も聞いたことがない。


結局、機器の不調ということで片づけられた。話がまるで噛み合わないのは、長くダンジョンにいたせいで記憶が混乱する「ダンジョン酔い」だろうと診断された。


身元も分からないので、上層だけに入れる保護探索者の仮許可を出し、協会の簡易宿に入ってもらった。


問題は、その翌朝から始まった。


「茂木殿。からくり鳥は、もう寄越さぬでよい」


協会が貸し出したドローンは、初日で真っ二つになって戻ってきた。正確には、同僚が破片を拾ってきた。


「な、なんで斬ったんですか!?」


「頭の上をつけ回しておったゆえ」


「それが仕事なんですよ!」


その日のうちに、持ち歩いている三枚のハンカチが全部汗で湿った。


茂木には【話術】というスキルがある。どんなにややこしい決まりでも、相手に合わせて噛み砕けばたいてい一度で伝わる。協会では「説明の茂木」で通っていた。


ところが宗次にだけは、それがなぜか通じなかった。


「これは千円札です。これで、お店のものが買えるんです」


「この紙に、米を買う値があると申すか」


「紙というより、そういうお金なんです」


「ならば、米を受け取るときに渡せばよいのだな」


「そうです!ただ、ほかのものも買えまして――」


「米のほかにもか」


「はい!米のほかにもです!」


ようやく伝わったと思えば、次の日には「値札の字が読めぬ」と呼び止められる。仕事の合間を縫って、結局三日かかった。


三日目の夕方、茂木の机には洗濯行きのハンカチが九枚積み上がっていた。


しかも顔を合わせるたびに、決まって同じことを聞かれた。


「茂木殿。天正で申せば何年か」


「ええと、つまりですね。今は令和八年でして……」


「天正では何年じゃ」


「年号が変わってるんですよ、宗さん!」


何度言っても、宗次は首を傾げるばかりだった。


ある日、隣の席の同僚が保護記録を覗き込んで言った。


「記憶喪失の身元不明者って、十年前にも一人いたらしいよ」


「そうなんですか?」


「聞いた話だけどね。詳しくは知らないなあ」


それ以上聞く暇は、茂木にはなかった。窓口には次の探索者が並んでいたし、奥からは宗次の声が飛んできたからだ。


「茂木殿。あの紙は、米何俵じゃ」


それが、二週間前の話だ。


◇


翌日、窓口の前に水無瀬朱音が立っていた。


「茂木さん。昨日の取り消し、納得できません」


隣には宗次がいる。長い刀を黒いケースに入れて、肩に担いでいた。茂木は朝から一枚目のハンカチを握りしめた。


「水無瀬さん。お気持ちは分かりますが……」


「私を助けてくれた人ですよ。あの巨鬼まで倒したのに」


「私も感謝しています。でも宗さんの仮許可は上層だけなんです。それで中層に入ったうえに、決まりのドローンも連れていなかったので」


朱音の眉が寄った。


「違反なのは分かります。でも、何か方法はないんですか」


「取り消しに加えて、半年間は仮許可の申請もし直せません。違反金は二十万円です」


「半年……」


茂木は眼鏡を押し上げた。


「それと、スキルがない以上、正式な探索者資格も原則として出せないんです」


朱音は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。宗次はケースを足元に下ろし、黙って聞いている。


「……分かりました。じゃあ、せめてこれだけでも」


朱音に目で促されて、宗次が懐から拳ほどの魔石を取り出した。


「鬼から得た石じゃ」


「A級の魔石ですね。ただ、資格のなくなった宗さんご自身では換金できないんです」


「あの日の配信が残ってます。私もその場にいましたし、どうやって手に入れたかは証明できますよね?」


あの配信なら、宗次が巨鬼を倒して魔石を拾うところまでしっかり映っている。


「はい。それなら、水無瀬さんの資格で手続きできます」


査定の結果は五十万円だった。


金額を聞いても、宗次の顔はぴくりとも動かなかった。と思ったら、ふいに茂木のほうへ向き直った。


「茂木殿。米に換えれば、いかほどじゃ」


「ええと、つまりですね……お米なら、十五俵ほどです」


宗次が固まった。


査定台の上の石と茂木の顔を見比べて、もう一度石を見る。ようやく値打ちが伝わったらしい。


朱音は受け取ったお金をそろえて、宗次に差し出した。


「助けてもらったお礼です。私が倒したわけじゃないので」


宗次はそれを両手で押しいただき、背筋を伸ばした。


「主殿、粉骨砕身つかまつる!」


窓口からロビーの端まで響く大声だった。


骨身を惜しまず働きます、ということだろう。殿様から恩賞をもらった家来のつもりらしい。


待合の探索者たちが一斉に振り返り、何人かはスマホまで構えた。


「主殿はやめてください!」


朱音が慌てて両手を振っている。


「あ、あの、宗さん」


宗次がこちらを向いた。茂木は二枚目のハンカチを握りしめた。


「ええと、そこから違反金を、二十万円……」


「……二十万」


「ですので、お手元に残るのは三十万円。お米にすると、九俵ほどで……」


宗次がまた動かなくなった。


さっきまでの勢いはどこへ行ったのか。朱音は肩を震わせて笑いをこらえている。


「ご、ごめんなさい。お礼のつもりだったんですけど……」


「主殿の咎ではござらぬ」


「だから主殿はやめてくださいって!」


茂木は急いで次の書類を引き寄せた。


「それと、これから暮らしていくには身分保護証が要ります。今までは仮許可証が身分証の代わりでしたから」


「ああ、写真も撮り直しですね」


「はい。ただ、この写真だとご本人かどうか……」


保護記録を見せると、覗き込んだ朱音が吹き出した。


「……近くの床屋さんに行ってきます」


宗次が何か言う前に、朱音はその袖を引いて出ていった。


二人がいないあいだ、茂木はいつもどおり窓口の仕事をさばいた。三枚目のハンカチを出したところで、カウンター越しに声がかかった。


「茂木さん、戻りました」


顔を上げた茂木は、朱音の隣の男を見て、いったん書類に目を戻した。


それから、もう一度見た。


「……どちら様で?」


「鷹守宗次にござる」


髭がない。肩までの黒髪を後ろで一つに結び、前髪が少しだけ額にかかっている。太い眉に切れ長の目、日に焼けた顔には傷一つなかった。


無骨な顔立ちはそのままに、泥と髭の下からずいぶん若い男が出てきた。


「短くするのは嫌だって、結べる長さだけは譲らなくて。剃刀を当てるあいだも、ずっと刀のケースを抱えて離さなくて……床屋さん、泣きそうでした」


朱音の声はすっかりくたびれていた。宗次の腕には、たしかにケースが抱えられている。


茂木は保護記録をめくった。


年齢欄には「二十四(本人申告)」。


「……本当だったんだ」


「茂木さん!?」


「い、いえ、失礼しました!写真、撮りますね!」


身分保護証の写真を撮り終えると、朱音が何気なく聞いてきた。


「宗次さんみたいに、記憶が戻らない人って珍しいんですか?」


「そうですね……宗さんみたいな記憶喪失の方、十年前にも一人いたんですよ」


「その方は今?」


「さあ、私も詳しくは……このあいだ同僚から聞いただけでして」


朱音は少し考えるような顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。


◇


その夜、茂木は自宅の椅子に腰を下ろし、朱音のチャンネルに上がった近況報告の動画を開いた。


画面には、髭を剃った宗次が映っている。概要欄には「編集:律」とあった。仕事が早い。


「……同じ人なんですよねえ」


ほんの半日前、自分はあの人に「どちら様で」と聞いたのだ。この仕事は長いが、自分で保護した相手の顔が分からなくなったのは初めてだった。


試しにコメント欄を開いてみる。


『誰!?』

『おじさんじゃなかった』

『24歳!?俺より年下やん』

『イケメン侍爆誕』

『おじさん呼びした奴全員謝れ』

『髭で何歳盛ってたんだよw』

『後ろの汗の人も映ってて草』


最後の一行が気になって、茂木は動画を巻き戻した。


宗次の後ろの窓口に、丸眼鏡でハンカチを握りしめた自分がしっかり映っていた。


「そこまで映さなくても……」


動画の終わりに、朱音が明るい声で告げる。


「明日は宗次さんと、街を歩いてみようと思います」


その後ろでは、宗次が真顔のままカメラを睨んでいた。


茂木は引き出しから洗い立てのハンカチを三枚取り出し、明日の分として机に並べた。


並べてから、長々と息を吐く。


「……明日も、ハンカチが足りないな」

 

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