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帰宅しても休まらない②

フロアの奥から、聞き慣れた足音が近づいてくる。

軽い。

妙に早い。

そして、甲高い声。

「風間くーん!」

ハレの肩がわずかに落ちた。

来た。

部長が書類の束を持って現れる。

「これ、今日中にお願いできるかなー」

ハレは時計を見る。

定時五分前。

いつものやつだ。


「あの、今日中って……」

「大丈夫大丈夫! 若いんだから!」

部長は笑顔で言った。

そして、いつものように高い声を上げる。

「残業ー!」

ハレの脳内に、リオンの声がよみがえった。

『その“部長”という魔物への対策も必要ですね』

魔物ではない。

いや。

もはや魔物と言って差し支えないのかもしれない。

少なくとも、精神には攻撃してくる。


ハレが諦めかけた、その時だった。

「すみません」

静かな声が割り込んだ。

八田美香だった。

部長が振り向く。

「え? 何?」

八田は手元のタブレットを見ながら言った。

「その残業指示、勤怠システム上では事前申請が必要です」

部長の笑顔が止まった。

「いや、今ちょっと急ぎでね」

「急ぎであれば、理由を入力したうえで、承認者の確認が必要です」


「いやいや、そんな堅いこと言わなくても」

「また、風間さんは今週すでに複数日残業しています」

八田は顔を上げた。

声は静かだった。

「このまま追加すると、部署単位の残業管理にも引っかかります」

フロアの空気が、一瞬止まった。

ハレも止まった。

新人が、初日に部長を勤怠で刺している。


部長の顔が赤くなった。

「新人が口出しすることじゃないだろ!」

声が少し裏返っていた。

甲高い。

リオンがいたら、剣に手をかけていたかもしれない。

八田は表情を変えなかった。

「失礼しました」

一拍。

「ただ、私、専務の指示で直接配属された人間なんですけど」

部長の動きが止まる。


八田は淡々と続けた。

「今のご発言も含めて、人事と専務に確認してよろしいですか?」

沈黙。

ハレは思った。

この新人、何者だ。

部長は口をぱくぱくさせた。

「いや、その……そういう意味じゃなくてね」

「では、風間さんへの本日の残業指示は取り下げでよろしいですね」

「……まあ、今日はいいかな」

「承知しました」

八田はタブレットに何かを入力した。


「風間さん、本日は定時退勤で問題ありません」

ハレは数秒、八田を見た。

「……え?」

「定時です」

「帰っていいの?」

「はい」

八田はごく普通の顔で言った。

「早く帰ってあげてください」

ハレの動きが止まった。

「……あげて?」

八田は表情を変えない。

「いえ。早く帰ってください、という意味です」

「今、微妙に言い方違わなかった?」


八田はほんの少しだけ目を細めた。

笑ったのかどうか分からないくらいの変化だった。

「お気をつけて」

その言葉が、少しだけ引っかかった。

普通なら「お疲れさまです」だ。

だが八田は、「お気をつけて」と言った。

ハレは一瞬、足を止める。

「……?」

振り返る。

八田はもう画面を見ていた。


ハレは首を傾げながら会社を出た。

外はまだ明るさが残っていた。

金曜の夕方。

空気が少し軽い。

「定時って、こんなに世界が明るいんだな……」

ハレはしみじみ呟いた。

そのまま電車に乗り、最寄り駅へ向かう。

明日は休み。

キャンプ道具の手入れ。

買い物。

平和な土曜日。

そうなるはずだった。


アパートの近くまで来た時、ハレはふと足を止めた。

自分の部屋の窓。

明かりがついている。

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