第90食 青春、アーリーモーニング!
身体がだるい上に、昨夜は自分だけがスベった気もする。
四日目の朝を迎えたミツルの気分は、ちょいとよろしくなかった。
「ぐぅ……」
肉体的な疲れに関しては、まず間違いなく、この人のせいだ。
ダブルなベッドから抜け出したミツルは振り返って、無防備にいびきをかいているノイチの顔を見つめた。
こんなにも歯並びがよかったんだな、と彼女の好きなところをまたひとつ見つけてしまう。
そうなってくると、彼の口から出てくるのは、いつもの諦めを含んだため息だった。
ふと、枕もとのデジタル時計に目をやると、時刻はまだ朝の5時。
「ちょっと、外、行ってくるからね」
聞こえていないとわかっていても、なんとなくミツルは、彼女への伝言を口にしてしまうのだった。
明けてぞ今朝は、夏の早朝。
プールサイドの空気は、まだひんやりとしている。
が、あと1時間もすれば、まるでノイチのように遠慮なく、強烈な日差しが身を焼き付けてくることだろう。
非日常の時間が流れる中で、ミツルがまずしたことは、ガラスの面積が広く解放感に溢れるコテージを外から眺めることだった。
………………
…………
……
照明の加減によっては、もしかしたら、外からシルエットが見えちゃってたかもしれない。
この事実を突きつけられて、今さらになって、恥ずかしくなってくる。
頭を抱えたついでに、ミツルは、水上にあるバーベキュー会場の方へと目を移した。
『真菜ミツルは昨日、あそこでスベりました』
そんな但し書きが書いてあるのかと思うほど、ひっそりと静まり返った現場は、ひどくよそよそしく見える。
心がゾワリと騒いだミツルは、コテージの前に備え付けてあるベンチに力なく腰掛けて、両手で顔を覆った。
昨夜、みんなで集まった夕食の席。
盛り上がったのか、なんなのか。
ともかく、食後は怪談話に花を咲かせた。
そして最後に迎えた、自分のエピソードの番。
締まりのない話が多かった中で、ちょっと色気を出してやろうと思ってしまったのが、そもそもの間違いだった。
世界三大ジュンジの一人、稲川。
なんかやだなぁ、怖いなぁ。
あの芸を披露したときから、そんな気配を感じていた――。
稲川淳二。
怪談話といえば、ミツルくんにとって、もうその人以外にいなかったんですね。
中学、高校、修学旅行の夜になると、彼はその瞬間だけ人気者になれた。
似ていたんですね。稲川淳二のモノマネが。
だから彼は浮足立って、昨夜も、得意のモノマネを披露した。
『やだなぁ、こわいなぁ』
はっきり言って、似ていましたよ。えぇ。
ただねぇ、『虫の知らせ』ってやつですかねぇ。
その日に限って、彼は妙な気配を感じたんですねぇ。
――あれぇ? おかしいなぁ……地元の同級生は皆、笑ってくれてたのに。
渾身のモノマネが、やってもやっても、今日はちっとも反応が返ってこない。
周りはシーンと静まり返っている。
――どうしてだろう。あれぇ? おかしいなぁ。なんか変だなぁ。
そう思いながらね、ミツルくん、ふっと周りの顔を見た。
するとね、いない。
笑っている人間が、だぁれもいない。
みんなね、凍りついたような顔をして、じぃーーっとこっちを見てる。
霊が、すうーっと通り過ぎた後のような、なんとも言えない冷た〜い空気が、その場を支配してるんだ。
あれぇ? と思ったら次の瞬間、ツーーー……っと、彼の背筋を、嫌〜な汗が伝い落ちていく。
そこで彼、ハッと気がついちゃった。
『あぁ、これ、皆、稲川淳二そのものを知らないんだ。俺、誰だかわからない人のモノマネして、スベってるんだ……』って。
根本を知らないと成り立たない、モノマネ芸の話でした。
怖いですねぇ。
――やっちゃった。
人生初の大スベり。
普段は前に出ないミツルにとって、その精神的ダメージは計り知れないものがあった。
「あら? 早いのね、真菜君」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、漆黒の水着に包まれたウカウカ先輩が立っていた。
控えめな露出と洗練されたデコルテが、なんとも魅力的に映る。
「お……はようございます」
不覚にもドキリとさせられたミツルは、言葉を詰まらせながら挨拶を返した。
ひと泳ぎしてきたのか、ビチャビチャに濡れた先輩は隣に腰掛けてきた。
「いよいよ、明日は配信ね」
「そうっすねぇ……」
今日の一泊を終えれば、厳しい生活に舞い戻る。
現実を思い出したミツルは、ますます両肩が重くなった。
「元気ないじゃない。昨日のことでも気にしてるの?」
先輩は悪戯っぽく微笑みながら本質をついてきた。
ミツルは、ますます居心地の悪さを覚える。
「……まぁ、そんなところです」
「真面目なのね。そこまで気にしなくても、大丈夫よ。人は、他人の失敗をそこまで覚えていないから」
まさかの人物からの励ましの声。
どう反応していいのかわからなくなったミツルは、何も言えなかった。
しかし不思議なことに、ささくれ立っていた心が、彼女の言葉によって少しずつ凪いでいった。
「それに、あなたのモノマネ、かなり完成度高かったわよ?」
「え?」
ミツルの肩に手をつき、立ち上がった先輩は、そのままプールサイドを駆けていって、水音の少ない恐ろしく綺麗なフォームの飛び込みをして見せた。
やがて、水面から顔を覗かせた彼女は、凛とした表情をこちらに向けてきた。
「真菜君も入る?」
「遠慮しておきます」
稲川淳二を知ってたなら、あのとき、なんで笑ってくれなかったのだろう。
裏切られた気持ちと救われた気持ちが交差する中、ミツルは渋い表情を浮かべ、碧の水面を優雅にかく先輩を見つめた。
「……ありがとうございます」
とはいえ、一応、感謝だけは告げる。
もちろん、早朝の遊泳に集中している先輩に、その言葉が届くことはなかった。




