第84食 でも『山を舐めるな!』って言ってきたりしないから、このおじさんのことは好き。
スズメバチにアオダイショウ、そしてツキノワグマ。
『入ってみましょうか』ぐらいのテンションで、決して足を踏み入れてはならない場所。
それが山である。
――はぐれちゃいました、と。
初手遭難。
サークルメンバーの中でも、とりわけ警戒心の強いミツルが、なぜ。
そう申されましても、ワンダーランドは彼が大好物。
避けられない運命というものが、そこにはあった。
「こうしちゃいられない。山で遭難したら、確か道を……」
下るのか、上るのか。
そう申されましても、平坦な地面には木々がずらっと続くばかり。
引き返そうと振り向いても、同じ景色が広がっている。
足元にはシダ植物が生い茂り、見上げれば木漏れ日が差し込む。
融けるように響く夏の虫たちの声が、どこか悲しげに聞こえた。
そうなんです。
これこそが遭難です。
「やっばいよ……さすがに……」
ふざけてる場合ではない。
かかっているのは日本の将来を担う、一人の若者の命。
ミツルは慌ててポケットからスマホを取り出す。
画面の上部に立っているアンテナの数はゼロだった。
「ゼロってなんだ!? 圏外とかじゃなく!? ギリ、届く感じ!?」
と、そのとき――。
カーン、カーン。
鬱蒼と茂る森の中に、冷たいけれども暖かい、人工的な金属音が反響する。
「助けてぇ!! だれかぁ!!」
なりふり構っていられないミツルは、音の発信源に向かって駆け出した。
がっさがっさと草をかき分け、耳元ではブンブンと羽虫が群がる。
突き出た木の小枝が肩にあたっても、彼は突き進む。
反動で戻った枝がビンッとなったところで、その音のもとにたどり着いた。
「あ!!」
「……え?」
バッファローチェックのシャツにカーゴパンツ。
そこにいたのは、無骨な木こりスタイルに身を包んだ、マッシュルームカットの肥満体型おじさんだった。
「ミツル君? どうしたの、こんなところで」
超お久しぶりです、トッシュ岡田。
「いや……その……そちらこそ、どうして、こんなところに?」
まさかりを担いでおられる。
ちょっと怖くなっちゃったミツルは、距離をとって質問を返した。
「話せば長いんだけどねぇ……聞きたい?」
「長くなるなら、いいです」
「まあその、最近になって元妻と、よりを戻してね」
ハリウッドスターのような結婚遍歴のくせに、話し相手のいないおじさんは聞く耳を持たない。
若いミツルは、格好の餌食となってしまう。
「僕も、もうじき五十になるんだけど」
太ってるからそうは見えなかったが、結構な年上だった。
「妻か仕事か、もうそろそろ一本化というか、人生の道しるべを絞ろうと悩んでいたんだ。だけどそんなときに、会社の副社長に声をかけられてね。それで、こうして週に何度か、妻と一緒に田舎暮らしを満喫しているんだ」
副社長のくだり、謎すぎじゃね?
そう思ったミツルだったが、今は自分の生命が第一。
余計なことは言わず、今度はこちらの事情を説明する。
「そうだったんですか。僕は、大学の仲間とグランピングに来ていて」
「グランピング? もしかして、副社長が経営する『うみぶた』に?」
「そうです」
不要な拡張を見せるワンダーランド。
その触手を見事に振り払ったミツルは、最も伝えなくてはならないことを簡潔に告げる。
「で、仲間たちと山に入ったんですけど、迷っちゃって」
「それは運がよかったね。この辺りはハチやらヘビやら、たまにクマまで出るから。よければ、僕が施設まで送っていってあげるよ」
「いいんですか!? ありがとうございます!!」
大聖人降臨。
難を逃れたミツルの手の中にあったスマホが、ふいに「ポキポキ♪」と通知音を鳴らした。
――0629。
素早くロックを解除して、通知内容を確かめる。
《みちゅ!? どこ行ったの!? 心配してるよ!! 連絡ちょうだい!!》
届いたのは、炎の婚約者・秋風ノイチからのメッセージだった。
「すみません。返信だけさせてもらってもいいですか?」
「もちろんだよ。早く安心させてあげた方がいい」
ミツルは素早くメッセージを打って送り返した。
《大丈夫。偶然岡田さんに会って、施設に送ってもらえることになったから。二次遭難しないように、皆と先に帰ってて。気をつけてね》
これでよし。
なんだ、イージーじゃないか、遭難。
ところがどっこい、ここはワンダーランド。
「じゃあ、行こうか。車は別荘にあるから、そこまでは歩きで」
「はい」
まさかり担いだトッシュ岡田。
素晴らしいエンターテイナー1号が、ミツルを輝かしい世界の奥深くへといざなう。
「スマホの電波、届くんですね?」
「ここら辺までは、ギリギリね。少し外れただけで、もうアウトだけど」
世間話をしつつ、頼れるでっけぇ背中を追う。
落ち着きを取り戻したところで、周囲を見てみる。
地面にはキキョウやエビネなどの季節の花が、道を開くように整然と咲き誇っていた。
「この花は、岡田さんが?」
「いやぁ、妻がねぇ……勝手にどんどん植えちゃって。結局、世話するのは僕なんだけど。参っちゃうよねぇ。えっへっへっへ」
年甲斐もなく、のろけ話を始めるおじさんに悲劇が降りかかるのは、このあとすぐ。
「わっ、ハチだ!!」
悲劇その1、アシナガバチ。
花の蜜に寄せられてやってきたそのハチを見て、ミツルは驚き、飛びのいた。
これに対し、トッシュ岡田は余裕の表情でずずいと前に出る。
「はっはっは。そんなに驚かなくても、大丈夫だよ。虫たちもわかってるから、刺されはしないさ。この花を手入れする人間がいなければ、自分たちも蜜にありつけないからね。僕は、一度も刺されたことがないよ」
ブーン……ズブリ。
「イッ……!?」
「岡田さぁん!?」
おじさんは歯を食いしばって、声こそ上げなかった。
が、分厚い脂肪をもってしても、やはり痛いらしい。
彼は刺された腕を押さえながら、表情を渋くさせていた。
「大丈夫ですか!?」
「だ、だいじょぶ、だいじょぶ。ぜんぜん、痛くないから」
おじさんは素早く袖をまくって、刺された箇所をじゅるりと吸い出す。
ペッと吐き出したあとは、腰にぶら下げていた水筒の中身を口に含んで、ブッと勢いよく噴き出した霧を傷口にかけた。
「これでオーケー」
「何をしたの、今!? それだけじゃ、痛いでしょう!?」
「大丈夫、大丈夫。行こうか。ここは危ない」
「危ないんじゃん!! 大丈夫なんですよね!?」
「大丈夫。でも、急ごう」
「……そうっすね」
心なしか、歩調を速めたおじさんの後を追う。
改めて、周囲を見渡してみると、小さなカエルやトカゲたちの姿もよく見えるようになってきた。
「こういう、爬虫類とかって、奥さんは平気なんですか?」
「うん。そもそも、僕とよりを戻すくらいだからね。虫やカエルなんて、なんでもないんじゃないかな? えっへっへっへ」
自分語りに酔いしれるおじさんがひどい目に遭うのは、このあとすぐ。
「うわっ、ヘビだ!!」
悲劇その2、シマヘビ。
餌となる小型爬虫類を求めて、木の洞からニョロリと姿を現したヘビを見て、ミツルは素っ頓狂に驚き、後ずさった。
「はっはっは。大丈夫だよ。毒を持っていないヘビだから。ただ、咬まれると雑菌で腫れたりするから、危ないから、どかしておくね」
エンターテイナーはひとり、シマヘビに向かって、ずんずん突き進む。
「いや、絶対危ないって……危ないってぇ!! 岡田さぁん!?」
ミツルの止める声が、むなしく響く。
スルスル……ニョロニョロ……パクッ!
「ギッ……!?」
「ほれ見たことか!!」
おじさんは、声こそ上げなかった。
が、分厚い脂肪をもってしても、やはり痛いものは痛い。
彼は咬まれた脛を両手で押さえながら、深くしゃがみ込んだ。
後ろから見る頭頂部は、思いのほか薄くなっていた。
「大丈夫ですか!?」
案の定、と思っても、ミツルは心配になって駆けつけた。
「だ、だいじょぶ、だいじょぶ。ぜんぜん、慣れてるから」
おじさんは素早くズボンの裾をまくり上げ、咬まれた箇所をじゅるりと吸い出す。
ペッと吐き出したあとは、腰にぶら下げていた水筒の中身を口に含んで、ブッと勢いよく噴き出した霧を傷口にかけた。
「はい、問題なし」
「さっきから何なの、その水!? 汚ねぇ!!」
「汚いって言わないで。おじさんだって、傷つく心は持っているのだから」
「……すいません」
論点をすり替えられたような、正論を言われたような。
キツネにつままれたような思いで、ミツルは歩き出したおじさんの後に続いた。
楽しいエンターテインメントの時間も終わり、少し進むと、やがて1軒のログハウスが見えてきた。
「さぁ、着いたよ」
玄関口の近くでわざわざ足を止めてまで、おじさんがドヤ顔で紹介してくるのも納得の佇まいだった。
「うわぁ……」
近くで見ているだけで、木の匂いが香ってきそうなほどの真新しさを誇る、立派なログハウス。
に、似つかわしくない高級スポーツカーが、駐車場に留められている。
さすがは、一流企業の広報宣伝部長。
と、ミツルは密かに思った。
ガチャリ。
扉が開かれる音がすれば、そこからメインイベンターのお出ましだ。
「まぁ、大変♪」
上半身は金髪縦ロール。
下半身は鳥の姿。
無駄に豊かな胸を、今日はなぜか、タイトなセイレーンの衣装の中でパツパツに収めている。
ログハウスの中から現れたのは、歌の妖怪。
その手には、軟膏のような薬が握られている。
覚えている人、0人説。
超々お久しぶりです。
悲劇その3兼エンターテイナー2号、その名もプラーヴァ姫咲――。




