第77食 夏の扉
坂の街、多摩。
バス停、駅、スーパーマーケット。
生活に必須の場所は、ことごとく坂の下にある。
当然ながら、下った坂は帰るときには上り坂となる。
この街に居を構える秋風家も、無論、坂の上に存在する。
それでは住むに不便かと問われれば、そんなこともない。
歩行者専用道路や陸橋を通れば、案外なんとかなったりもする。
それに、なんて言ったって、多摩である。
この季節は、整然と並ぶ人家が漏らす灯りと、この街にしかない自然環境が調和した夜景が実に素晴らしい。
しかしその光景も、帰宅を果たさなければ、拝むこともできない。
念願の家に到着するには、古めかしくも長い、とある坂を上る必要がある。
秋風家の世話になって、早三か月とちょっと。
ミツルはこの坂を『スーパー坂』と勝手に名づけ、心の中で呼んでいる。
「お腹が、空きましたぁ」
この夏の目標は、楽しく過ごすこと。
ミツルは、薄暗くなってきた坂道をゴロゴロミシミシと、重いキャリーワゴンを引っ張りながら、泣き言を吐いた。
「家までもうちょっとだから、頑張って」
この夏の目標は、ミツルからキスしてもらうこと。絶対してもらう。あと、ミツルのツボにハマる、かわいい服とかほしい。
秋風ノイチは、彼の隣でピンクのショートボブを揺らしながら適当な声援を送った。
「いつもすまないねぇ、ミツル。あとでお駄賃を弾まなきゃねぇ」
この夏の目標は、一撃9万発。
手にした錫杖を響かせながら、最後方を歩くのは秋風ぼぎであった。
「そんなの、いらないってば」
ミツルの口から放たれる、お小遣いのお断り。
これもまた、様式美となって久しかった。
「そうだね。みちゅはもっと、すごいのが欲しいんだから、ね?」
「バカ、そんなこと、今言うな」
そろそろ、お車が欲しい。
水に米に、何十キロあるかわからないカートを引く生活を続けていたら、戦うことに適した下半身ができあがってしまう。
手を出したら逮捕される世の中で、そんな筋肉を手に入れても、宝の持ち腐れというものだ。
と考えながら、ミツルは額にかいた汗を手で拭った。
――ブゥゥン。
脇を通り抜け、過酷な『スーパー坂』を軽々と上っていったのは乗用車だった。
ミツルは足を止め、夏の夜に滲む赤いテールランプをじっと見つめた。
「おや、車が欲しいのかい? それなら、早く言えばよかったのに。ミツルが運転してくれれば、だいぶ楽になるからねぇ」
「ね!? おばあちゃんもそう思うでしょ!? そうすれば買い物だけじゃなくて、お芝居とか、好きなところ、たくさん出かけられるようになると思うよ!?」
「そうだねぇ。いい考えじゃないか」
勝手に盛り上がる祖母と孫娘を尻目に、ミツルはこれまでのことを顧みた。
大学生の自分に代わって、ぼぎに車体の購入をしてもらおうと、以前からノイチとは相談をしていた。
どうせなら、お年寄りの乗り降りが楽に行えて、荷物がたくさん積める、そんな車がいい。
そう考え、自分なりにいろいろと調べてみた。
その結果、『トロイ』というスライドドア付きの上級ミニバンがふさわしいのではないか、という結論に至った。
これがぶっちゃけ、全然金が足りない。
今ある貯えをすべてつぎ込んだとしても、不足金額は中古で150万。
新車で購入する場合、300万円以上もの大金が必要になってくる。
――そんな金、どうやって稼ぐんだ!!
……本当は、一人だけ、心当たりがいるんだけどね。
非常にバカバカしい内容で、恐ろしく危険でもあり、それでいて異様に報酬のいい、そんな仕事を紹介してくれる、ウカウカ先輩という、違う世界で暮らしているっぽい方がいらっしゃる。
八王子のラブホテル。
色々、なんか、税金がどうとかいう話もあって、秘密にしてるけど、あれで200以上貰っちゃった。
そうだよ。俺、500万の車、欲しくなっちゃったの。厳密にいえば550ね。
50万は端数扱いって、怖い!
自動車業界って、頭おかしい!
一介の大学生が手にしていい財産ではないのは、わかってる。
「おばあちゃん、大丈夫? 暑くない?」
「暑い暑い。でも、夏だから、仕方ないさねぇ」
「塩飴とか、経口補水液とかも買ってあるから、辛かったら無理しないでね?」
「はいよ」
……それでも、やっぱ欲しいよね。
ノンちゃんが心配しているとおり、ばあちゃんが熱中症になっちゃったらシャレにならないし。
車だったら、冷房ガンガン効かせられるし。
ついでに、ノンちゃんが好きな海外のオルタナティブロックを、ガンガン聴かされるし。
猫の病院だって、スッと行ける。
重いんだから、アイツは。
8キロありますから。
獣医さんに毎回、遠回しに怒られてますから。
それにしても、どうしよう。
一獲千金の、あの怪しいバイトに、またしても手を染めるか?
ウカウカ先輩も言うほど、悪人ではないし。
あの時のバイト代だって、先輩が提案してくれた分割で貰ってるし。
俺なんかはパーッと使っちゃう人間だから、そうしてくれたのは本当にありがたかった。
税金のことも、よく教えてくれたし。
あの一件から、実はちょくちょく、ウカウカ先輩から誘いの連絡は来てたの。
今までそれを、全部無視していました。
誘惑に負けて、楽な道を選ばないように。
金銭感覚がめちゃくちゃになるのって、すごい怖いことなんだから。
かつて俺はパチンコで、そういう目にあってる。
それがきっかけで、ノンちゃんのばあちゃんに拾われることになったわけだけども。
それでも、そういうことをすべきではない、というのは身をもって体験済みなの。
けど、どうしてだろうね。
俺の中で、何かが騒いでいるのは。
中東の風が、呼んでいる気がするのは。
全部、夏のせいかしら?
「――よかったね、みちゅ? おばあちゃん、買ってくれるって!」
「え?」
ごちゃごちゃと考えている間に、運命は決められていた。
ミツルは振り返り、ぼぎの顔を見下ろした。
「ばあちゃん……」
「ふぇっふぇっふぇ。お金なら、気にすることないさねぇ。出世払いに期待しておくよ」
ビッグにならなくては。
――8月1日、18時55分。
ミツルはひっそりと、歪んだエンタメの世界への扉を開く決意を固めた。




