第62食 暗闇パニック
全部ソース味。
なんだったら、なんか酸っぱい味が口の中にずっと残るから、遠慮したい。
それが、四日目の夜を迎えるまで、ミツルが思っていた、家庭でのお好み焼きの印象だった。
「どう?」
ジュウジュウと湯気立つホットプレートを前に、ノイチが尋ねる。
彼女の顔は、不安と期待の両方が入り混じっていた。
「うんめぇ……」
ミツルの漏らした感想には、宇宙空間に深く沈み込む超重力のような真実味があった。
「でしょ!?」
ノイチは顔を輝かせて、お好み焼きをひっくり返した。
「うん。どうしてこんなにおいしいの、これ?」
何を食べてもおいしい。
それがノイチの手料理に対する、最終回答になった。
真菜ミツル、20歳。
女に胃袋を掴まれることの本当の恐ろしさを、彼はまだ知らない。
「ノンちゃんって、呼んで?」
秋風ノイチ、19歳。
愛する者への洗脳がまだまだ足りないと思った彼女は、そのあたりのことを本能的に理解していた。
「……ノンちゃんの、お好み焼きは、どうしてこんなにおいしいの?」
「愛情」
明け透けに放たれた好意に照れたミツルは、視線を逸らし、クーラーの下で涼んでいるカフェオレ大福もち丸を見る。
お腹を見せて爆睡しているその口元では、涼風に晒された鰹節のカスがはためいていた。
この日、都心では最高気温36℃が観測された。
夜になっても、気温はまだまだ下がる気配を見せない。
寝苦しい熱帯夜になりそうな予感がビシビシと、窓の外から伝わってくるようだった。
「夏だねぇ……」
誰に言うわけでもなく、額の汗を手で拭いながらミツルは呟いた。
ノイチは新しく焼けたお好み焼きを、彼の皿にそっと乗せる。
周囲には、彼女特製のほんのりと甘い、出汁を効かせたソースの香りと、プレートが発する熱気が充満していた。
「……いや、うまいけど、あっついんだよ!! なんだこれ!? なんでお好み焼きにしたの!?」
ようやく、ミツルが動き出す。
カフェオレ大福もち丸の体温を検知したクーラーは、そこにばかり冷気を当て、彼らがいるテーブル周辺は熱がこもって仕方がなかった。
「あはははは!」
「あはは、じゃなくて!! ……まあ、おいしいから、いいけど」
箸を持ち直したミツルは、顔を赤くさせてお好み焼きに取り掛かる。
「……ありがと」
お礼を述べる彼女もまた、顔を紅潮させていた。
「実はさ、冷たい料理も考えたんだけど、ミツル、明日も学校あるじゃん? だから、急に冷たいもの食べて、お腹壊したりしないように、って。そう思って、買い物に行ってきたの」
――ノンちゃん……。
「そしたら、お財布忘れちゃって。それで、慌てて取りに戻ったの」
――ん?
「で、今日暑かったじゃん? だから、途中でコンビニ寄って、アイス買ったの。それでさぁ、あ! これから買い物行くのに、アイス買っちゃった、と思って!」
――楽しそうに、同じことを二回言っておる。
「あはははは! 笑っちゃうよね!? それで……あ、そうだ! ミツルに食べてもらいたいものがあるんだった」
――お好み焼きの説明、しないで終わっちゃったな!!
「温めてくるから、ちょっと待ってて」
――温めるものって……もしかして、結構しっかりしたやつ? お好み焼き、もう三枚食っちゃったよ。もうちょっと、早めに言ってほしかった。
「あ、暑いよね? 扇風機つけとくね? あれ? ミツル、青のりかかってないじゃん」
――おい、待て待て待て。扇風機つけて、そんなことしたら。
ボババババ。
忍法・部屋中、青のり散らしが炸裂する。
「大変! ミツル、掃除機取ってきて!」
「やっとくから大丈夫。その間に温めるもの、温めてきな?」
「でも……いいの?」
「いいよ、別に」
「ミツル、優しい」
「わかったから、早く行ってこぉ」
「あはははは! 行ってこぉ!」
鉾田弁を真似て、ノイチは台所へと姿を消していった。
ミツルはテキパキと動き、掃除機をセットする。
ホットプレート、エアコン、扇風機、電子レンジ、掃除機。
同時に動かしてはいけない、家電たちが動いてしまった。
結果、秋風邸は――。
バチッ。
一瞬にして、闇の世界へトリップ。
「……そりゃ、そっか」
ノイチに夢中になりすぎたミツルは、下手を打ったと反省する。
「なに!? いやぁぁ!? 助けて、ミツルぅ!!」
――まずは救助からだな。
「ちょっと待ってて!」
「早くぅ!! 怖い!!」
「大丈夫!」
「大丈夫じゃない!!」
「違う違う、そういう意味じゃなくって!」
「とにかく早く来て!!」
「なるべく急ぐ! 怖かったら、しゃがんでな?」
「わ、わかった!!」
大抵の男であれば、悲鳴を上げた彼女がいるところに向かうのだろう。
しかし数々の修羅場を潜り抜けてきたミツルは、異常に落ち着いていた。
まずは窓の外に目をやり、これが停電ではないかを確かめる。
近所には明かりがついている。
この家のブレーカーが落ちたということで、間違いなさそうだった。
と、なれば明かりが必要になる。
「KⅡ! どこにいる?」
《こちらにいます》
反応したのは、スマホに内蔵された音声アシスタント。
音を頼りにスマホを探り出す。
あとはもう、手にしたスマホのライトで台所に向かうだけとなった。
が、そのとき――。
「ほええぇぇ!?」
もにゅもにゅ、ふわり。
そんな感触が足首にまとわりついた。
足元を照らしてみると、丸っとした顔のカフェオレ大福もち丸がこちらを見上げていた。
「驚かせるなよ。お前は猫なんだから、暗闇でも平気だろ?」
「ナーン……」
暗いのは大丈夫だが、こういう状況で一人にされるのは、また別の話。
カフェオレ大福もち丸の目は、そう言っていた。
「……おっと。忘れてた」
台所に向かう前に、ミツルは抜けそうなプラグをすべて抜いておいた。
これで、不慮の事故も回避できる。
「ミツル、早くぅ!!」
「いっけね。急ぐぞ、カフェオレ。踏まれないように、少し離れておけよ?」
「ナーン……」
秋風ノイチ救助隊が、今、台所へと足を踏み入れる。
スマホの光が照らし出したのは、ピンク色のショートボブ。
電子レンジの前でしゃがみ込んだ、ノイチの姿だった。
「大丈夫か?」
「遅いよ!! ありがとう!! チキン冷めちゃったかも!! でも、これ、半額券当たったからミツルに食べてほしくて!! 私、怖くて!! 味はレッドチリでいい!?」
パニックに陥った人間は、何をするかわからない。
文句と感謝とチキンの心配、それから自分の今の気持ちとミツルの味の好みを確認したノイチは、電子レンジの中からチキンをつまみ上げて、ひと口頬張った。
「今、食べんの!? 落ち着きな!? もう大丈夫だから!!」
「まだ、冷たいかも」
「そりゃそうよ。ブレーカー落ちてんだから……」
分電盤の場所はどこだったか。
口を動かしながら、ミツルは思い出す。
玄関にはない。
毎日見ているので、それは知っている。
もしかしたら、ここにあるかもしれない。
そう思い、周囲に光を当ててみる。
「見っけ」
勝手口の上。
旧ニュータウンの歴史を感じさせる、年季の入った分電盤がそこにあった。
「ちょっと位置が高いな。脚立か、踏み台になるようなものって、ある?」
「わかんない!」
背後からノイチの頼もしい声が響く。
「……じゃあ、悪いけど肩車するから、一番大きいレバーを上まで上げてくれる?」
「え? それ、ちょっと無理かも」
「どうして?」
「今、チキン持ってるから」
「置いとけ、そんなもん!」
《わかりました》
「おめぇじゃねぇよ、バーカ!! そもそもチキン持てねぇだろ、メカなんだから!!」
「ナーン……」
「おめぇはよく見ると、『青のり大福もち丸』になってんな!! どうしちゃったんだよ、カフェオレ!? 床、転がってきたの!?」
「はい。これ使えば?」
「あぶねぇ!? 暗闇でいきなり菜箸を伸ばしてくんな!!」
「だってミツル、届かないって言うから……」
「だからって、それでブレーカーは上げられねぇんよ!! ……あれ? なんか、気持ち悪くなってきちった。叫び過ぎたかな?」
室温33℃。
気づけば、台所の温度は危険な領域に差し掛かっていた。
「できるって。ほら」
分電盤の下まで進み出たノイチは、全力でつま先立ちをする。
そのまま、彼女は手にしていた菜箸をブレーカーに向かって伸ばした。
パチッ。
ピーッという何かの起動音とともに、一気に明るさを取り戻した秋風家。
「ね?」
ミツルへと振り返ったノイチの顔には、得意げな笑みが浮かんでいた。
――慣れてんな、こいつ。じゃあ、なんで怖がってたんだよ。
自宅お泊まり会、四日目の夜。
ただただ体力を消耗した、ミツルであった。




