第54食 さよなら、ミツル
「よくぞ、ここまでたどり着いた……真菜ミツル君!」
目が眩むほどの白一色に染められた大階段。
その上から響いたのは、落ち着きと色気を兼ね備えた、あの声に他ならなかった。
オールバックで固めた漆黒の長髪に、イワトビペンギンを思わせる金色のメッシュがきらりと輝く。
一糸も纏わぬ上半身は、彫刻のように無駄なく鍛え上げられていた。
その強靭な肉体を支えるのは、美しい波を描く、超高級ツータックのスラックス。
その名も闇野イルカ。
ホテル・ドルフィンの支配者である。
その圧倒的なオーラに、ミツルは思わずたじろいだ。
だが、隣のウカウカ先輩は構わず、堂々と一歩前に出る。
「調子はよさそうね。その腹筋、貰いに来たわよ」
「そんな主旨じゃなかったでしょ!? あんた、さっきまで裏方っつってなかった!? 急に、なに!? 前に出て、目立っちゃって」
ウカウカ先輩の突然の行動力が、イルカの威圧感を無効にしてくれた。
「ドクター鵜飼……旧知の貴様も悪くないが、今日の私の相手は、時代を先取るニューパワー! 真菜ミツル、ただ一人のみ!!」
イルカがパチンと指を鳴らしたのを合図に、大理石の階段の最上段からしっとりとした液体が流れ落ち始めた。
「なんだ?」
ゆっくりと時間をかけてトロトロと流れ落ちてくる液体を、ミツルは訝しげに見つめる。
液体が階段を満たせば満たすほど、脳がとろけるような、サンダルウッドの香りが強くなってくる。
やがて、真っ白な大理石の階段は、液体が放つ光沢で完全にコーティングされた。
100mlあたり8000円。
その液体の正体は、ヒアルロン酸、天然アロマ、プラセンタ、生薬など、美容成分がこれでもかと配合された、イルカオリジナルブランドの最高級ローションだった。
「とうっ!」
前方へと大きく跳躍するイルカ。
少し遅れて、中央部を大きく凹ませた風呂椅子が彼の背後から飛んでくる。
「はっ!」
空中に美しいドルフィンカーブを描きながら、イルカはその椅子に尻を密着させる。
そのまま流れるように着地を決めると、すさまじい勢いで階段を滑り下りる。
「あっぶねえぇ!?」
突っ込まれる――。
そう思ったミツルは反射的に、ウカウカ先輩をどかそうと足を動かす。
だが、床の摩擦係数はゼロ。
ローションに足を取られた彼は、大股を開きながら横転。
先輩は、涼しい顔でスライド。
二人の間をイルカwithスケベ椅子が猛スピードで通り抜けていった。
「はははははははははーっは! さあ、ラストゲームの時間だ! 最終ステージ『駆け抜けろ! ヌルヌルローション階段ダッシュ』の、ルールを説明しよう!」
躍動するイルカの声を背に、ミツルはヌタヌタと、生まれたての小鹿のように立ち上がる。
「ダッシュ? 最後の最後で?」
「ご名答! 最上段に設置してある赤いボタン! それを1分以内に押さなければ、このホテルは爆発する!!」
「なんで下りてきちゃったの!? 俺が失敗したら、誰が止めんだよ!? ほかのお客さんの被害とか、そういうの、考えないの!?」
「はははははははははーっは!」
ご名答。
イルカが下りてきたことに、まったく意味はなかった。
「それでは、私も急ぐことにしよう! 先にボタンを押した方が、このホテルの支配者となる! それでいいかな、ドクター鵜飼?」
「なんか、変にルール変えてない!? あんたが先に押しても爆発は止まるんだから、そこは協力するとかにしようよ!!」
「これで八王子エリアも、私たちのものね」
「知らない!! その陣取りゲームみたいなの!! 勝手にやっていいけど、話は広げないで!! 時間ないから!!」
スタートラインはなし。
ミツルと、一切話が通じない者どもによる『駆け抜けろ! ヌルヌルローション階段ダッシュ』が、いざ始まる。
「ファストッ!」
先陣を切ったのは闇野イルカ。
「おぉっ!?」
ミツルも感嘆の声を漏らす、美しい後方2回宙返り1回ひねりを決めた彼は、着地をするや、つるりと滑る。
「ノー!?」
「ダメなのかよ!!」
大の字に、それも頭を下にして滑り落ちてきたイルカは、ミツルたちの足元を勢いよく通り過ぎると、さきほどまで自分が乗っていたスケベ椅子に頭をぶつけた。
「ゴージャス!」
「まあ、確かに。ラメ入ってるしね」
さすがにツッコミ疲れが見えてきたミツルは、省エネモードで落ち着いて、スケベ椅子の色合いを口にした。
「あんたなら、行けると思ってた俺がバカだった」
やるっきゃない。
覚悟を決めたミツルの、魂の1分が始まる。
「真菜君、何をしてるの?」
ウカウカ先輩がそう言うのも無理はなかった。
彼は手すりをしっかりと持って、一歩一歩階段を踏みしめていた。
「なにって、上ってるんですけど?」
慎重派のミツルが選んだのは、亀作戦。
少ない残り時間で選んでいい戦法ではなかった。
彼にカメラを向けるウカウカ先輩も、ため息を吐くしかなかった。
「残り40秒! ダッシュだ、ミツル君!」
「来んなよ、わざわざ!!」
ミツルのベルトを掴んできたのは、復帰したイルカだった。
その手にまとわりついたヌルヌルが、腰回りからミツルを侵食していく。
「あぶねぇ!! 脱げるから!!」
手すりから手を放し、両手でズボンをしっかりと固定。
寸前のところで放送事故を防いだミツル。
そんな彼を、イルカが力づくで引っ張り上げる。
「さあさあ、ゴールまであと少しだ!」
「なんかもう、全然わかんねぇんだけど、あんた、なにがしたいの!?」
足場がカクンと下がる。
しっかりと踏みしめていたはずの階段が、その存在を斜面へと変えた。
理屈も分からず、階段はローション滑り台へと強制移行。
バランスを崩した二人は当然――。
「あああぁぁぁ!?」
「ワーーーォ!!」
下まで滑り落ちる。
「……何が起こったか、説明してくれ!!」
「ランダムトラップの発動だ! これより、私たちはこの斜面を駆け上がるっ!」
「説明をしろっつってんだよ! なにをきっかけで発動したの!? そのトラップは!!」
スケベ椅子に手をかけながら立ち上がったイルカは、艶めく髪をかき上げ、セットし直す。
彼は表情を引き締めて一瞬だけ頂上を見ると、今度は爽やかにミツルに笑いかけながら、黄金の椅子を拾い上げた。
「残り10秒! こうなったら、人間カーリングしかない! そうだろう!?」
「うん、なんでもいい。八王子を救ってくれ」
有無を言わさず、スケベ椅子に座らされたミツル。
「あ、俺なんだ。行くの」
彼の背中を押すのはもちろんイルカと――。
「ボタンは上りきってすぐ、突き当りの壁面に設置されているわ」
なんだかんだ言って、ここまで苦難をともにしてきたウカウカ先輩だった。
「残り6秒です!」
アキコまで合流し、決戦にいよいよ終止符が打たれる。
「みんな……」
――なんか俺、乗ってばっかだな。
ゴッという轟音とともに、風景が線になった。
時速にして、140km。
さっき滑り落ちたばかりの斜面を、超高速で滑り上がっていく、黄金の椅子。
凄まじいGによって、頬の肉が後ろに持っていかれるのが分かる。
1秒とかからず、頂上へと躍り出る。
突き当たりに設置されている赤いボタンは、まるで巨大な月のように目の前に迫っていた。
あとは押すだけ。
ミツルの脳は手を伸ばせと、指令を出す。
――ぜんぜん、手が、言うこと聞かねぇってばよ。
衝突。
カチリ。
どうやら体のどこかが当たって、スイッチが押されたらしい。
それが、ミツルが意識を失う前に聞いた、最後の音だった。




