第25食 愛が取り戻した正気! それでも溢れているのは瘴気!
闇野道場のリング上――。
「拳を握れ!」
「シュッ!」
「正義を穿て!」
「シュッ!」
「いいぞぉ!! ミツル君!! 君は素晴らしい素質で溢れている!!」
「ありがとうございます!」
闇野入鹿。
三十六歳、独身。
飛鳥御光とは幼馴染であり、宿敵でもあるこの男は褒め上手であった。
ミットを手にした危険なカリスマが、知らず知らずのうちにミツルを蝕んでゆく。
「すげぇな、あのガキ。結構、動きが鋭いぞ?」
「ふん……イルカ様がそれだけ上手なだけさ。あの御方にかかれば、どんな木の根っこも極上のゴボウへと変わる」
ミツルの才能に、リングの外から見学していたモブたちが嫉妬していた。
しかし、今のミツルは少々肥えている。
ゴボウというよりは、ロシアの大根といった風情の体型であった。
一方、受付カウンターでは――。
「カッコいい……」
「イルカ様……」
それぞれ意中の相手に対して瞳を濡らす女子たちがいた。
秋風ノイチと受付嬢アキコである。
ノイチはミツルの野性味にときめき、
アキコは――
「イルカ様……」
美形好きであり、筋肉フェチであり、そんな男が流す汗にたまらなく興奮するという、手遅れな人であった。
「やっぱ男は、ちょっとくらいヤンチャなところもないとね」
「はい……あぁ、飲みたい、あの雫……」
絶望的に噛み合わない、二人の会話。
「ん? 喉、乾いたの?」
「えぇ……まぁ、そんなところです……」
されど女子は、逞しく生きることができる。
「二十! 三十! もうワンセット! ラッシュラッシュラッシュ!」
「ハウラァ!! ウラララララァ!!」
和太鼓を思わせる重低音の連打が響き渡る。
ボクササイズを終えたミツルはその場に崩れ落ち、一歩も動かなくなった。
「ッヘェェェイ!! そこのピンキィガール!! ミツル君を、リングから下ろしてくれるかな!?」
すっかり仕上がったのは闇野入鹿。
ドルフィンオールバックをひとつにまとめて縛ると、彼は高らかにノイチへと命じた。
「はーい!」
手を上げて応えたノイチは、しゃなりしゃなりとリングへ上がる。
「よいしょ……あれ?」
思ったより、重い。
あとなんか、汗で湿ってて、あんまり触りたくないかも。
えらいこっちゃと、困ったノイチ。
明後日の方向を見つめながら、対策を考える。
まもなく、彼女は合点がいったように手を打ち鳴らした。
「よいしょー!」
導き出した答えは、ローリングスタイル。
ゴロゴロと、勢いがつき始めれば後は簡単。
小太りな大根は、そのままリングの外へと転がってゆく。
――ベチャッ。
「だうっ!」
落下の衝撃と痛みで目を覚ますミツル。
なぜだろう。
意識を取り戻した彼を襲ったのは、痛みではなく、回転性のめまいだった。
「あはははは!」
心地の良い笑い声のする方に目を向ければ、そこにはノイチの姿があった。
「はははははははははーっは!」
そして、イルカが彼女の横で笑っている。
彼の上半身は、汗でびっしょり。
並んで立って自分を笑ってくる、一組の男女。
――まさか。
その構図に、ミツルはいけない興奮を覚えかける。
「疲れただろう!? シャワーを浴びてきたまえ!!」
「……はい」
前後の記憶があやふやになるまで追い込まれていたミツル。
言われるがまま、立ち上がろうと両足に力を込める。
「あれぇ?」
だが、視界はぐにゃりと歪み、腰を抜かしたように座り込んでしまう。
「ヘイ! ピンキィガール! 彼を介抱してあげたまえ!」
「あいあいさー!」
イルカのノリに引っ張られる、秋風ノイチ。
彼女もまた、ヴィラン寄りの性質を持つ人間であった。
「……何のつもり?」
「なにって、かいほー」
座り込むミツルと両手を絡めただけ。
さながら、ただの仲良しカップルである。
――よかった。
こうして手を繋いでくれるということは、イルカとの性的な関係はなかった。
すべては自分の誤解だと気づいたミツルは、こっそりと胸をなでおろす。
リアルの嗜好と想像上の嗜好。
その大いなる違いを、彼は心の中で噛みしめたという。
「どうしたの?」
「いや……休憩したら、デカ盛り弁当、買いに行こうか?」
「うん!」
カロリー消費はあくまで余興。
ミツルは目の前の、大切な生きがいを見出す。
悪しきカリスマによる浸食は、純粋なる想いが浄化させた。
「デカ盛り? もしかして、それは『キッチン歌姫』のことかな?」
と思いきや、イルカがこれに反応する。
「はい、そうです! やっぱり知ってますか? 有名ですもんね!」
――バッカ野郎。
せっかくこのワンダーランドから、抜け出す口実ができたのに。
明るく答えたノイチに、正気を取り戻したミツルは早速絶望させられた。
「ならば、私も行こう! クワガタよしのり君、カブトムシみつを君! 私はミツル君たちと出かけてくる! 留守を頼んでもいいかな?」
突如として本名を明かされるモブたち。
「アイアイサー!!」
彼らはもちろん、洗脳済みである。
「アキコ、ピンキィガールにお土産を! ジムで一番ジャンボな、あのぬいぐるみを頼む!」
「はぁい……」
受付嬢、血刀アキコ。
言わずもがな、彼女も調教済みである。
「というわけで、ミツル君! お出かけ前に、シャワーを浴びに行こう!」
「別々に入ればいいのでは!?」
軽やかにリングから下りたイルカは、ミツルを片手で抱え上げてシャワー室へと直行する。
「ちょっとぉ!? 話を聞いてください!?」
「はははははははははーっは!」
闇野入鹿、三十六歳。
何の参考にもならないが、雄でもいけるタイプの雄である。




