第十八章 和成 4
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そこは、驚くほど簡素だった。
母鍵室の隣にある、小さな観察ベイ。
白いベッド。
透明な仕切り。
拘束具は外してある。
でも、"必要ならすぐ閉じられる形"なのが見て取れる。
嫌な部屋だ。
けれど白い部屋よりはましだ。
少なくとも今は、蓮自身がここへ入るかどうかを選べる。
蓮はベッドの前で少しだけ立ち止まった。
「……こわい」
美羽の声がイヤーピース越しにすぐに届く。
『うん』
ただそれだけだった。
励まさない。
大丈夫とも言わない。
でも、"怖い"を消さない。
蓮はその返事で、ゆっくり頷く。
「でも、やる」
毛布を肩から外し、ベッドへ座る。
右腕はまだ固定布に包まれたままだ。
林は少し離れた位置に立ち、端末を確認している。
結理はガラス越しに中を見られる位置。
俺はその横。
美羽の声は、俺の耳と蓮の耳、両方へ入るように設定された。
「始めます」
林の声はあくまで静かだった。
「蓮さんの格子は、母鍵との整列を逆位相で崩して切断します。
正直、痛みはあります。
途中で停止もできます。
あなたが"止める"と言ったら止めます」
「ほんとに?」
蓮が聞くと、林は頷いた。
「監査条件下では、そうしないと比較が壊れます」
要するに、監査体が見てるから守る。
気分のいい話じゃない。
でも、それでも今はましだ。
母鍵室の円筒が、少しだけ明るくなる。
青い塊の中を、細い光が回り始める。
その瞬間、蓮の右腕が跳ねた。
「っ……!」
「蓮!」
俺が呼ぶ。
蓮は歯を食いしばりながらも、こっちを見る。
「いる」
「うん」
「美羽もいる?」
『いるよ』
その三つの言葉が、細い線みたいに蓮の目へ戻っていく。
林が端末を少しだけ調整する。
「第一段階。
母鍵への同期反転」
蓮の右腕の固定布の下で、黒い筋が一気に浮き上がる。
痛みで、呼吸が荒くなる。
『蓮くん』
美羽の声がまっすぐ届く。
『名前、言って』
蓮の喉が、ひくっと鳴る。
「……さ、がら」
痛みで声が割れる。
でも、切れない。
「れん」
青い塊の光が、一瞬だけ乱れた。
林の目が少しだけ鋭くなる。
「……反応した」
「当然でしょ」
結理が低く言う。
「コードじゃなく名前で返してるんだから」
林は何も返さない。
でも、端末の数値を見つめる目つきが、ほんの少しだけ変わる。
蓮はそこで、もう一度息を吸う。
「おれ、れん。
しっぱいさく、じゃない」
その言葉と同時に、右腕の黒い筋が一部だけ明滅を止めた。
引き戻そうとしていた"帰還の脈"が、一瞬だけ遅れる。
林が、初めて少しだけ驚いた顔をした。
「自己識別で位相がずれた……?」
「そういうこと」
冬月が、別回線から低く言う。
「あなたたちが"ただの患者"として扱ってたもの、全部そこに入ってるのよ」
青い塊がもう一度強く脈打つ。
蓮が、今度は本当に呻いた。
「いた、い……!」
「止める?」
林が確認する。
蓮は顔を歪めたまま、首を横に振った。
「……やる」
「理由は」
林が聞く。
たぶん純粋な確認じゃない。
"どういう選択で進んでいるか"を監査体に見せるための質問だ。
蓮は涙みたいなものを浮かべながら、それでも言った。
「もどりたく、ない。
さむいの、だけに、もどるの、いや」
その答えに、海上施設のスピーカーが小さく鳴る。
監査体だ。
「残余宿主相良蓮。恐怖優位を拒絶。自己名称を保持。比較継続に値する」
林の指が、一瞬だけ止まる。
今の言葉が効いた。
少なくとも、向こうにも。
「第二段階に入ります」
林が少しだけ低い声で言う。
さっきより慎重だ。
「ここから先は、帰還格子の主索を断つ。
痛みが強くなる可能性があります」
「やる」
蓮はもう一度言った。
今度は少しだけ、迷いなく。
その瞬間、右腕の固定布の下で、何かがぱちんと弾けるような音がした。
黒い筋が、一斉に光る。
蓮が本気で悲鳴を上げる。
「蓮!」
俺が叫ぶ。
でも、飛び込まない。
飛び込みたい。
でも、それを今やると蓮の"自分で選んだ流れ"を壊す気がした。
美羽の声が、一瞬も遅れず飛ぶ。
『蓮くん!
ここにいる!
終わったら、名前呼ぶから!
だから、戻ってきて!』
その言葉が、蓮の叫びの中へ差し込まれる。
「……れ、ん」
蓮が、自分で自分の名前を繰り返す。
「れん、れん……!」
青い塊の光が、一気に乱れる。
円筒の中で、脈動のリズムが崩れる。
林が画面を見て、低く言った。
「主索が……切れる」
最後に、もう一度だけ強い光。
そして、蓮の右腕の黒い筋が、潮が引くみたいに少しだけ下がった。
完全には消えない。
でも、"母鍵へ引かれている感じ"だけが、そこで切れた。
蓮の全身から力が抜ける。
ベッドへ崩れそうになる。
「……れん」
美羽が、今度は本当に泣きそうな声で呼ぶ。
「いる」
蓮が、小さく返した。
それだけで十分だった。
俺はそこで、初めてちゃんと息を吐いた。
「切れたのか」
林が画面から目を離さずに答える。
「蓮さんの帰還格子主索は、少なくとも今、母鍵側から切れています」
「今、って言うな」
「完全消滅ではないからです」
林は淡々としていた。
でも、その声の中にさっきより少しだけ"観測者としての驚き"が混じっているのが分かった。
「自己名称と非恐怖接続が、主索切断の補助条件になっている可能性があります」
「可能性じゃない」
結理が低く言う。
「今、目の前で起きた」
たぶん、林もそれは分かっている。
でも、この人はすぐに"確定"って言わない。
そこが逆に嫌なくらい優秀だった。
「次は」
林が、そこでようやく俺を見る。
「あなたです」
右手が、静かに脈打つ。
『坊や』
リリスの声は、今までになく近かった。
『ここから先は、本当に私が賭けになるわよ』
分かっていた。
蓮より俺の方が複雑だ。
リリスの"私"は、母鍵から切るだけじゃ済まない。
でも今、蓮が自分の名前を抱えたまま戻ってきた。
なら、行くしかない。
「やる」
そう言うと、結理がすぐにこちらを見た。
冬月も。
美羽は、泣きそうな顔のまま頷いた。
「うん」
その一言だけで、右手の熱が少しだけ整う。
林は静かにベッドの向こうを示した。
「では、次へ」
医療船 和成の、本当の核心がようやく口を開こうとしていた。




