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第十八章 和成 5

 

    5


「まず、選択肢をはっきりさせます」


 林紹晴は、母鍵室の照明を一段だけ落とした。


 青黒い塊――可搬型母鍵の光だけが、部屋の中央で脈を打つ。

 その脈に合わせて、俺の右手と蓮の右腕が、深いところからじわじわ引かれる。


「蓮さんは、さきほどの手順で主索を切断できました。

 恐怖優位ではない自己識別が、帰還格子の位相を崩したからです」


 林の声は、相変わらず静かだった。

 でも、さっきより少しだけ慎重になっているのが分かる。


「諸井さんの場合は、もっと複雑です」


 そう言って、林は端末に二つの図を出した。


 一つは、俺の神経経路図らしいもの。

 そこへ黒い線が右腕から肩、頸、脳幹の一部へ絡みついている。

 もう一つは、その黒い線の外側を、さらに薄い青の格子が覆っていた。


「黒がリリスとの境界保持。

 青が帰還格子。

 問題は、この二つが一部で噛み合っていることです」


「つまり」


 結理が低く言う。


「格子だけ切ろうとすると、リリスまで巻き込まれる」


「はい」


 林は頷く。


「方法は二つだけ」


 そこで、一拍置く。


「一つ目。

 断片の自己境界を開き、母鍵へ一時的に同期させた上で、帰還格子ごと回収する」


「それ、リリスを持っていくってことだろ」


 俺が言うと、林は否定しない。


「結果として、そうなる可能性が高いです。

 あなた自身の神経損傷は最も少ない」


「却下だ」


 即答だった。


 林は表情を変えない。


「二つ目。

 断片の自己境界を保持したまま、あなた自身の選択と外部アンカーで帰還格子だけを切断する」


「それが、港で蓮にやったのと同じ?」


 冬月の声が、イヤーピースの向こうで入る。


「いいえ。

 あれは蓮くんの恐怖優位を緩めた補助で、格子主索の切断は母鍵側で行いました。

 静男さんの場合は、断片そのものが主索の一部へ絡んでいます」


 林は、そこで初めて少しだけ言葉を選んだ。


「成功例はありません」


 部屋が静まる。


「失敗した場合は?」


 結理が聞く。


「宿主側の神経損傷。

 断片の境界崩壊。

 場合によっては、母鍵への巻き取りです」


「つまり、結局リリスを失う可能性がある」


 俺が低く言うと、林は頷いた。


「はい。

 ただし、成功すればあなたとリリスの両方を残したまま、帰還格子だけを切れます」


『坊や』


 右手の奥で、リリスが囁く。

 今までで一番近いのに、少しだけ遠かった。


『聞いたでしょう。

 私を賭けるのよ』


「賭ける気はない」


 心の中でそう返す。

 でも、返した直後に自分でも分かる。

 言葉ほど簡単じゃない。


 林が続ける。


「今ここで決めてください。

 帰還格子はすでに本社側の引き寄せを受けている。

 長く待つほど、二つ目の成功率は下がります」


「今すぐ決めろって、ずいぶん綺麗に言うな」


 思わずそう言うと、林は小さく首を傾げた。


「飾っているわけではありません。

 時間がないだけです」


『あの女、本当に嫌』


 リリスが低く言う。


『でも、ここで嘘を混ぜないのも事実なのよね。

 だから余計に嫌』


 蓮が毛布を握ったまま、小さく言った。


「しずお」


「ん?」


「おれ、さき、きった。

 でも、きるって、きめたの、おれ」


 その一言が、胸の真ん中へ落ちる。


 そうだ。

 蓮はさっき、自分で決めた。

 怖いまま。痛いまま。

 それでも、自分の名前で。


 だったら。


「リリス」


 俺は、はっきり呼んだ。


 青黒い母鍵の脈が、一瞬だけ不規則になる。


 林も、結理も、美羽も、全員が黙る。


「お前が決めろ」


 観察室の空気が止まる。


『……坊や』


「俺のために残れ、とも言わない。

 消えるな、とも言わない。

 戻るなら、お前がそうしたいから戻れ。

 残るなら、お前が"私"でいたいから残れ」


 喉が少しだけ詰まる。

 でも、そこだけは曖昧にしたくなかった。


「お前の選択を、俺はあとで勝手に言い換えない」


 その言葉が終わるまで、誰も口を挟まなかった。


 母鍵の青い脈動だけが、冷たく響いている。


 やがて、右手の奥で、リリスが小さく笑った。


 今までの妖艶な笑いじゃない。

 少しだけ震えていて、でも確かに嬉しそうな笑いだった。


『……それ、すごくずるいわよ』


「どこがだよ」


『だって、坊やが"必要だからいて"って言ってくれた方が、よっぽど楽なのに』


「楽な方は嫌なんだろ」


 少しだけ間があった。

 それから、リリスははっきりと言った。


『残る』


 右手が、そこで一度だけ強く熱を返す。


『私は戻らない。

 "私"をやめる気もない。

 だから、二つ目で行くわ』


 林の目が、そこで初めてほんの少しだけ揺れた。


「断片側の明示選択を確認」


 機械みたいにそう言ったが、その声にはごくわずかな驚きが混じっていた。


「では、第二法で進めます」

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