第十八章 和成 3
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母鍵室は、船の中心そのものにあった。
医療船、和成の一番奥。
二重扉。
外からは見えない区画。
周囲の壁だけ微かに冷えていて、空調とは別の低い振動が伝わってくる。
林が認証を二つ通す。
扉が開く。
中は、白くなかった。
暗い。
照明は落とされ、床の下から青い光だけが立ち上がっている。
部屋の中心に、円筒形の透明容器が一本。
その中に、拳大の青黒い塊が浮いていた。
石じゃない。
機械でもない。
もっと嫌な、禍々しい何かだ。
表面には、微細な線条が絶えず走っている。
脈動しているようにも、呼吸しているようにも見える。
そして、それを見た瞬間、俺の右手と蓮の右腕が同時に反応した。
ずきん、と深いところを引かれる。
「っ……!」
思わず息が詰まる。
蓮も壁へ手をついて、顔を歪めた。
「……あれ」
林が静かに言う。
「可搬型母鍵。貴方達の帰還格子の親情報を保持する中枢片です」
『嫌い』
リリスが、今までになくはっきり言った。
『あれ、私たちを"戻る形"に矯正するための型よ』
「型」
俺が小さく繰り返すと、林は頷く。
「あなたと蓮さんの中に残っている格子は、あれを基準に整列しようとします。
今の痛みは、その同期反応です」
結理は母鍵室へ一歩踏み込んで、円筒の周囲を見回した。
「持ち運び型って言ってたのに、ずいぶん大きい」
「これでも小さい方です」
林の声は淡々としている。
「本来の本社母鍵は固定式です。
これは現場用。
ただし、戻すだけなら十分な性能がある」
「戻すって言い方、やめろ」
俺が低く言うと、林は少しだけ首を傾けた。
「では、"整列"と呼びましょうか」
言葉だけ変えても、中身は同じだ。
その時、イヤーピース越しに美羽の声が入った。
『お兄ちゃん、大丈夫?』
「少なくとも……平気じゃない」
正直にそう答えると、美羽はすぐに言う。
『じゃあ、こっち見てるつもりでいて』
意味が分からない。
でも、その声だけで右手の引きつれが少しだけ和らぐ。
蓮も、少しだけ呼吸が戻る。
たぶん、美羽の声は蓮にも届いている。
「ありがとう」
蓮が小さく言う。
それだけで、部屋の空気が少し変わる。
林はその変化を、ちゃんと見ていた。
「……興味深いですね」
「観察しに来たんじゃない」
結理が冷たく言う。
「解除できるのか、できないのか。
それだけ教えて」
林は少しだけ沈黙してから、円筒横の端末を起動した。
画面に、二本の波形が出る。
俺。
蓮。
そこへ青い母鍵の波形が重なる。
「理論上、解除は可能です」
「じゃあやれ」
「ただし条件があります」
やっぱり来た。
林は画面から目を離さずに言った。
「帰還格子は、単独の鍵ではなく、断片と宿主の結合履歴そのものを参照しています。
つまり、ALICE-01側の格子を切るには、リリスとの接続状態を一時的に"開く"必要がある」
「開くって、どういう意味だ」
『やだ』
リリスが即座に言った。
『それ、私の輪郭を崩すよ』
林はリリスの反応を読めないはずなのに、まるで分かっているみたいに続ける。
「断片の自己境界を一時的に薄くし、格子を単独で引き剥がす。
成功すれば、リリスは残る可能性がある。
失敗すれば、断片側も母鍵へ巻き取られる」
「つまり、リリスを賭けろってことだな」
俺が低く言うと、林は否定しない。
「諸井静男さん。
あなたの現在の安定は、リリスと美羽さんと蓮さん、その三者との関係に強く依存しています。
だから格子だけ綺麗に抜くのは難しい」
「蓮は?」
結理が訊く。
「蓮さんはもっと単純です。
未分化断片が弱く、恐怖基盤側へ寄せられたため、母鍵から切るだけなら比較的容易。
ただし、その後の人格安定は別問題です」
蓮が、そこで少しだけ顔を上げる。
「おれ、きる」
「待て」
思わず言う。
でも蓮は首を横に振った。
「おれ、さきに、きる。しずお、あと」
その声は震えていた。
でも、はっきりしている。
「おれ、こわいけど、やる。
しずおと、りりすがきえるの、いや」
胸の奥がきしむ。
林がそこを見ながら、淡々と言った。
「順番としては合理的です」
「合理的とか言うな」
結理が吐き捨てる。
でも、内容自体は否定できない。
蓮の方が先に切れるなら、少なくとも"やれば何が起こるか"の一端は見える。
それでも。
「条件を増やす」
俺は林を見て言った。
「何でしょう」
「俺たちの言葉で決める。
お前らの"合理"だけで進めない」
林は少しだけ目を細めた。
「具体的には」
「蓮が切るって言うなら、蓮が決める。
途中でやめるならやめる。
美羽の声を切らない。
結理も同席。
それと、監査体にも見せる」
最後の一つで、林の目の温度が少しだけ変わった。
「監査体を治療プロセスへ入れるのは推奨できません」
「治療じゃないんだろ」
俺が返すと、林は一瞬だけ黙る。
「……公平ですね」
「違う」
結理が低く言う。
「お前らだけの箱にしないだけ」
林はしばらくこちらを見ていた。
それから、わずかに頷く。
「分かりました。
ただし、その場合は一人ずつです。
最初は蓮さん。
その結果を見て、次を選ぶ」
『嫌』
リリスがもう一度、はっきりと言った。
『坊や、あれ、私を剥がす準備なのよ』
「分かってる」
心の中で返す。
でも、今、蓮をこのまま帰還格子に削らせ続けるわけにもいかない。
「蓮」
俺は真正面から呼ぶ。
「本当に、自分で決めるんだぞ」
蓮は少しだけ息を吸った。
右腕の痛みに顔を歪めながらも、ちゃんと頷く。
「きめる」
それだけで、進むしかなくなった。




