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第十七章 志奈星本社側の最後の手 4・5

 

  4


 出航までの時間、俺は蓮と二人で甲板の隅にいた。


 海はもう夜の色へ戻っている。

 風は冷たい。

 でも、白い部屋や潮見の地下よりはずっとましだ。


 蓮は手すりにもたれず、床へ座っていた。

 毛布を肩からかけたまま、右腕の固定布を見ている。


「まだ痛いか」


 訊くと、蓮は少しだけ考えてから言った。


「いたい。

 でも、まえのいたいと、ちがう」


「どう違う」


「まえのは、おれ、なくなる、いたい。

 いまのは、おれ、のこる、いたい」


 その答えに、少しだけ言葉を失う。


 分かる気がしたからだ。


 壊されて消えていく痛みと、残るために耐える痛みは、同じ痛みでもきっと違う。


「しずお」


「ん?」


 蓮が、少しだけ視線を上げる。


「おれ、こわくなったら、また、へんなことするかも」


「知ってる」


「そのとき」


 少しだけ息を止めるみたいにしてから、蓮は言った。


「なまえ、よんで」


 たったそれだけだった。


 でも、その一言がひどく重い。


「呼ぶよ」


 即答する。


「お前も、俺が変になったら呼べ」


 蓮は少し驚いた顔をした。

 それから、小さく頷く。


「しずお」


 練習みたいに、一度呼ぶ。


 その呼び方で十分だと思った。


 右手の奥で、リリスが静かに囁く。


『悪くないわね』


「何が」


『互いに呼び戻す、って約束。

 集合にはないもの』


 たしかにそうだ。

 あっちにはたぶん、"誰か一人を名前で戻す"って発想がない。


 だからこそ、今の俺たちは向こうにとって比較対象になるんだろう。


 遠くで、医療船のレーダー信号が一つ増えたと、冬月の声が回線へ入る。


『和成、予測航路どおり。

 一時間二十分で交点』


 時間だ。


「行くぞ」


 蓮に手を差し出す。


 蓮は少しだけ迷って、それから左手で掴んだ。

 右腕じゃなく。

 それが今は、少しだけ嬉しかった。


 5


 出航前に、迅から最後の連絡が入った。


 画面越しじゃない。

 音声だけだ。

 でも、その方がかえって重い。


『医療船、和成に乗っている本社側責任者は、林紹晴。

 外部監査人二名のうち一人は本物、もう一人は志奈星寄りだ。

 護衛は表向き非武装だが、船内拘束具と薬剤はある』


「嫌な情報しかないな」


 俺が言うと、迅は低く返した。


『だから今言っている』


 結理が短く聞く。


「鷹瀬は?」


『乗ってこない』


 少しだけ意外だった。


『だが、二海里後方から監視艇で追う。

 "国家の介入ではない"形を守るため、直接は乗らない。

 ただし、本社側が失敗したと判断した瞬間に踏み込む気だ』


「結局、待ってるだけじゃん」


『そうだ。

 あいつは待てる時には待つ』


 その言い方にだけは、妙な実感があった。


 迅は少しだけ間を置いてから、続けた。


『諸井くん』


「何ですか」


『母鍵を切る時、記録を優先しすぎるな。

 原本はもう十分出た。

 今夜の目的は、生きて切ることだ』


「分かってる」


『本当に?』


 珍しく、念押しだった。


「……努力する」


 言ってから、自分でも少しだけ笑いそうになる。


 迅も一瞬だけ黙ったあと、ほんの少しだけ息を漏らした。


『結理に似てきたな』


「嫌だな、それ」


 結理が横から言う。


「こっちの台詞」


 そのやり取りのあと、迅は少しだけ声を低くした。


『もし、林紹晴が"治療"という言葉を使ってきても、同意書には絶対触れるな。

 向こうは法務を全部整えてくる。

 署名一つで、今まで積んだ外の証拠が"本人同意の特殊治療"へ書き換わる』


 ぞっとする。


 どこまでも、やり方がきれいだ。


『それと』


 迅が最後に言う。


『林は、鷹瀬より怖い。

 あいつは怒らない。

 だから、最後まで人間の顔を崩さずに奪う』


 それだけ言って、迅は回線を切った。


 海の上に、短い沈黙が落ちる。


 結理が小さく言った。


「父さんが"怖い"って言う人、ちょっと見たい」


「見たら後悔するやつじゃないのか」


「たぶんする」


 それでも、行くしかない。


 医療船、和成は、もうこちらへ向かっている。

 帰還格子は、今も蓮と俺の中でじわじわと引き戻しを続けている。


 時間切れになる前に、母鍵を切る。

 そのための"中立面談"だ。


 右手が静かに熱を返す。


『坊や』


 リリスが囁く。


『あの船、嫌な感じがする。

 白くて清潔で、でも中は絶対に汚い』


「分かる」


『でも、行くのね』


「行く」


 即答だった。


「今度こそ、戻るために」


 その一言で、右手の熱が少しだけ穏やかになる。


 夜の海の向こう、白い灯りが一つ、ゆっくりと近づいてくる。

 医療船、和成。


 綺麗な顔をした最後の箱が、やって来る。

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