第十七章 志奈星本社側の最後の手 2・3
2
最初に動いたのは、美羽だった。
すぐ蓮のそばへ行き、毛布の上から肩を支える。
「大丈夫?」
「……だいじょうぶ、じゃない」
蓮の声は掠れていた。
右腕の固定布の下が、さっきよりはっきり脈打っている。
筋が黒く太くなり、布越しでも浮いて見える。
俺も近づく。
右手の中にある熱も、前より深い。
骨の奥を引かれるみたいな嫌な感覚。
「これ、今も来てるのか」
小さく聞くと、リリスは短く答えた。
『ええ。
弱いけど、一定間隔で。
引っ張って、削って、戻りやすい形へ寄せる』
「二十四時間以内に来いっていうのは」
冬月が低く言う。
「その間だけ、自分たちが安全圏にいるから?」
結理がすぐ端末を叩く。
画面には海図と航路予測。
「医療船、和成、まだ公海へ入ってない。
でも本当に来るなら、今夜遅くにはこの施設から百キロ圏に入る」
「志奈星本社側の"保護"か」
冬月の声には、はっきり嫌悪が混じっていた。
「最悪ね」
「国家利用派とどう違うんだ」
俺が言うと、冬月は少しだけ肩をすくめた。
「手順が綺麗。
あと、輸送先が国外になる」
それだけで十分すぎた。
国外へ持っていかれたら、白い部屋よりひどい場所へ行く可能性だってある。
少なくとも、名前で戻ってこられる保証なんてどこにもない。
その時、外部回線がまた鳴る。
今度は迅だった。
結理がスピーカーへ切り替える。
「聞いた?」
『聞いた』
迅の声は低い。
『本社が医療船を出してきた時点で、鷹瀬も同じ答えに辿り着く。
"国内のうちに押さえろ"とさらに強く出る』
「慰めにならない」
『慰めていない』
いつも通りの返しなのに、今は少しだけ助かる。
『だが、まだ手はある』
「何」
『帰還格子の元鍵を切る』
観測室の空気が、そこで一段だけ変わった。
「そんなことできるのか」
俺が聞くと、迅は少しだけ間を置いた。
『理屈の上ではできる。
志奈星本社の緊急制御が体内へ届くのは、残っている"型"が外の母鍵へ同期しているからだ。
なら、その型の親情報を書き換えるか、焼き切ればいい』
「そんな都合のいい場所があるの?」
結理が言う。
迅は低く答えた。
『あるかもしれない。
第三棟の青い窓が落ちた時、外部送信の最後の宛先は二つあった。
ひとつは監査体側。
もうひとつは、本社側の帰還格子管理ノードだ』
「本社側……海外?」
『物理的には国外だ。
だが、鍵そのものは公海上の医療船、和成に持ってくる可能性が高い。
本社は、いざという時に現場で回収・抑制できるよう、可搬型の母鍵を使うことがある』
冬月が、そこで小さく息を呑む。
「つまり、その船を押さえれば」
『帰還格子の引き戻しを切れる可能性がある』
「可能性かよ」
思わず吐くと、迅は即答した。
『そうだ。
だが今、唯一現実的だ』
そこへ、美羽が小さく言った。
「行くんだね」
返事に少しだけ詰まる。
医療船、和成。
志奈星本社側の医師団。
外部監査人二名。
公海上。
そして、二十四時間以内。
行くしかないのか。
多分そうだ。
蓮が、毛布を掴んだまま言う。
「おれ、いく」
「だめだ」
反射的にそう言う。
「でも、かぎ、おれにも、つながってる」
その通りだった。
蓮だけ置いていって、こっちだけ鍵を切っても意味がない。
もしくは、蓮の方が先に崩れる。
「それでもだめ」
「なんで」
「お前、今だってきついだろ」
「しずおもだろ」
その返しに、言葉が止まる。
リリスが、静かに囁いた。
『坊や。
今の"連れて行かない"は優しさだけど、少しだけ前の白い部屋と似てるわよ』
胸の奥が、少しだけきしむ。
選ばせる。
名前で呼ぶ。
恐怖じゃない方を選ぶ。
それをやる側にいたいなら、ここで蓮の意思を先回りして消すのは違う。
「……蓮」
低く言う。
「行きたいのか」
蓮は少しだけ震えながらも、頷いた。
「こわい。
でも、もどるの、いや」
その一言で充分だった。
「分かった」
言うと、蓮の肩から少しだけ力が抜けた。
「でも、一人じゃ行かせない」
「うん」
それでいいんだろう。
3
次の作戦会議は、今までよりもっと嫌な意味で具体的だった。
医療船、和成の予測航路。
本社側の臨床統括局。
志奈星の"外部監査人"。
可搬型母鍵の可能性。
公海上での拿捕に近い行為の法的グレー。
冬月が机の中央に海図を広げる。
「和成は、表向き国際医療調停船。
だから正面から止めると、逆にこっちが"治療拒否の危険団体"になる」
「じゃあ、どう入る」
俺が聞くと、結理が低く言う。
「招かれる」
「は?」
「向こうが"来い"って言ってるんだから、行くふりをする」
その瞬間で、方向性が見えた。
「まさか、乗るのか」
「乗る」
結理は迷わない。
「医療船が母鍵を持ってくるなら、向こうの"治療プロトコル"の中に入らないと触れない。
なら、引き渡しに応じる顔で近づいて、内部で切る」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
でも、その顔はもう決まっていた。
冬月も、すぐに話を継ぐ。
「表向きの引き渡しは、施設側が"監査体の継続審査のため、医療船での一時中立面談を受ける"という形にする」
「監査体はそれ、認めるのか」
俺が聞くと、海の下の青い点を映したモニターが、ほんの少しだけ揺れた。
すぐあとに、スピーカーが鳴る。
「比較継続に資するなら、移動審査を許可する」
「ただし、剪定優先群の一方的隔離は認めない」
「……聞いてたのかよ」
思わず呟く。
冬月が小さく肩をすくめる。
「最近ずっと聞いてるでしょ、あっちは」
それもそうだ。
対面審査体の声はさらに続く。
「四個体連結を分断する意図が確認された場合、審査を打ち切り、介入を更新する」
「介入、ね」
結理が低く言う。
「便利な言い方」
「でも、使える」
冬月が言った。
「少なくとも、向こうが"勝手に蓮だけ回収"とか"静男だけ隔離"をしようとしたら、その時点で監査体がまた割って入る」
つまり、監査体を"味方"とは呼べないが、"勝手なルール変更を嫌う審判"として利用はできる。
それは大きかった。
迅の声が回線越しに入る。
『鷹瀬はその条件を嫌がる。だから、おそらく医療船側へも圧をかける』
「本社と利用派がまた揉むってこと?」
美羽が聞くと、迅は短く答えた。
『そうだ。その隙が、お前たちの唯一の窓になる』
窓。
その言葉に、第三棟の青い球体が一瞬だけ脳裏をよぎる。
今度は、壊すだけじゃない。
切る。
そして、戻らないようにする。
「行くのは誰」
冬月が言う。
「静男、蓮、結理。最低限それだけ」
「私も」
美羽がすぐ言った。
「だめだ」
今度は俺だけじゃなく、冬月も結理も同時に言った。
美羽が少しだけむっとする。
「なんで」
冬月が、珍しく少し柔らかい声で言った。
「医療船は"中立"の顔をした密室になる。
そこに未成年の安定因子まで乗せると、向こうの言い訳も増える」
「でも、お兄ちゃんの安定が――」
「今回は、あなたは外からつなぐ」
結理が続ける。
「海上施設と医療船の間に、短距離中継ドローンを浮かせる。
声だけは届くようにする」
「声だけ?」
「それでも、ないよりずっといい」
美羽は少しだけ考え込んで、それから静かに頷いた。
「分かった。
でも、ずっと呼ぶ」
「十分だ」
俺が言うと、美羽はこっちを見て、小さく笑った。
「うん」
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。




