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第十七章 志奈星本社側の最後の手 1

 

   1


 迅の会見が流れてからの、志奈星薬学公司の反応は驚くほど遅かった。


 一時間。

 二時間。

 その間、ニュース番組も、SNSも、監督官庁のコメント待ちも、全部が聖麗学院と国内利用派の話で回っていた。


 それが逆に、嫌な感じだった。


 あの会社が、この程度で黙っているはずがない。

 第三棟の青い窓を落とされて、原本まで持ち出されて、それで、対応を何もしないなら、最初から白い部屋なんて作らないだろう。


「静かすぎる」


 結理が、観測室の端末を睨みながら言った。


「本社側のプレスがまだ出ない。

 株価保全も、法務牽制も、国外回線も、全部ワンテンポ遅れてる」


「遅れてるんじゃなくて、準備を揃えてるのかも」


 冬月さんが言う。


「本社側はたぶん、"国内支社の不祥事処理"と"資産回収"と"外部異常対応"を一つの文にまとめようとしてる」


 嫌な予感しかしない。


 美羽は観測室の窓代わりのスクリーンを見ながら、小さく言った。


「まとめるって、どうやって」


 結理が冷たく答える。


「私たちを"危険な感染源"にするの。

 そうすれば、回収も隔離も保護も、全部同じ言葉で押せる」


 それが一番ありそうだった。


 学校の件も、利用派の補正計画も、蓮の白い部屋も、全部まとめて

「国内現場が暴走した特殊生体医療事故」

 みたいな顔で潰す。


 そして、その事故の"唯一の適切な対処者"として志奈星本社が出てくる。


『上手いわよねぇ』


 リリスが囁く。


『悪いことをした後で、"片づけます"って顔するの。

 人間も、集合も、そこだけはよく似てる』


 その時だった。


 蓮が、小さく身体を丸めた。


 最初は寒いのかと思った。

 でも違う。


 右腕の固定布の下が、じわりと脈打っている。

 顔色も一気に悪くなる。


「蓮?」


 俺が呼ぶと、蓮は歯を食いしばったまま声を絞る。


「……きた」


「何が」


「おくで……ひっぱってる」


 背筋が冷える。


 右手が、同時にじり、と熱を持った。

 痛みというより、糸をどこか遠くから引かれるような不快さ。


『……やったわね』


 リリスの声が、一気に低くなる。


『本社側が鍵を回した。

 窓が壊れても、体の中に残ってる"帰還格子"までは消えてない』


「帰還格子?」


 冬月がすぐに食いつく。


「それ、前に言わなかった」


『言いたくなかったのよ』


 珍しく、リリスの声には苛立ちがあった。


『治験薬に混ぜた素材の中に、ごく薄い"戻るための型"がある。

 普段は眠ってる。

 でも本社側の親信号を食らうと、宿主の中からそっちへ寄せようとする』


「つまり」


 結理が冷たい声で言う。


「本社側は今、施設に来なくても諸井と蓮に触れられるってこと?」


『ええ。

 しかも、痛み付きでね』


 蓮がそこで肩を震わせた。

 右腕だけじゃない。

 全身の深いところを、見えない爪で引っかかれているみたいだった。


「止められないのか」


 俺が訊くと、リリスは少しだけ黙ってから言う。


『一時的には、美羽の声と、坊やの接続で散らせる。

 でも、根元を切らない限り繰り返す』


 最悪だ。


 志奈星本社は、もう国内拠点が燃えようがどうでもいい。

 体の中に残した"戻るための型"を回し、痛みでこっちを屈服させるつもりなんだ。


「やっぱり来たね、本社の最後の手」


 冬月が低く言った。


 その言葉が終わるより先に、観測室のメインスクリーンが一斉に黒く落ちた。


 次の瞬間、志奈星薬学公司のロゴが現れる。


 青い星。

 滑らかすぎる企業イントロ。

 その後ろに、白い会議室。


 画面の中央には、一人の女が座っていた。


 黒髪を後ろでまとめ、無機質な白いジャケットを着ている。

 年齢は四十代前半くらい。

 目元だけ妙に疲れていて、でも口元には最初から"こちらが感情的になる前提"で作られた落ち着きがあった。


「志奈星薬学公司 国際臨床統括局、林 紹晴です」


 日本語は完璧だった。


「国内支社で発生した不正運用と、現在観測されている外部異常接触事案について、緊急調停の提案に来ました」


「遅い」


 結理が即座に言う。


 林は少しも動じない。


「ええ。

 社内整理と、国外承認を同時に取っていましたから」


 その言い方だけで、こいつが本社側の"ちゃんとした"人間なんだと分かる。


 国内の白衣の男みたいに現場臭くない。

 鷹瀬みたいにむき出しでもない。

 もっと整っていて、その分だけ危ない。


 林は続ける。


「先に事実だけを言います。

 第三棟の観測窓は破断しました。

 そのため、ALICE-01とResidual Host No.03の体内帰還格子に、本社側の緊急制御が自動移行しました」


「やっぱり」


 結理が吐き捨てる。


 林は頷きもしない。


「このまま放置した場合、四十八時間以内に両個体の神経系へ不可逆な損傷が出る可能性が高い」


「脅し?」


 俺が言うと、林は静かに答えた。


「脅しではありません。

 設計上の事実です」


 その一言で、右手の熱が少しだけ変わった。

 怒りだけじゃない。

 嫌な確信の熱だ。


 こいつはたぶん、本当にそういう仕組みを知っている。

 知った上で、それを"交渉材料"として机の上に置いている。


「解決策は一つ」


 林が言う。


「二十四時間以内に、ALICE-01およびResidual Host No.03を志奈星本社側の管理ラインへ移送すること。

 それにより、帰還格子の暴走と外部異常の増幅を同時に抑制できます」


 蓮が、そこで小さく息を呑んだ。

 俺の右手も、じわりと痛む。


「お兄ちゃん」


 美羽が、すぐ隣で囁く。


 その声だけで、少しだけ戻る。


「行かない」


 俺ははっきり言った。


 林の表情は変わらない。


「そう答えると思っていました。

 だから第二案も持っています」


 画面が切り替わる。


 そこに映ったのは、港湾の医療船だった。


 白い船体。

 赤十字に似たマーク。

 だが、よく見ると志奈星の星を崩したロゴが入っている。


「洋上中立医療ユニット《和成》」


 林が言う。


「今夜、日本沿岸の公海上へ入ります。

 乗船者は本社側医師団と、外部監査人二名。

 国家利用派の単独管理も、国内支社の現場回収も介さない」


「信用できると思う?」


 結理が冷たく言う。


 林はそこで初めて、少しだけ目を細めた。


「信用の話ではなく、選択肢の話です」


 その言い回しが、本当に本社の人間らしい。


「あなたたちには、残る時間がありません。

 帰還格子は痛みを伴います。

 まずResidual Host No.03から崩れます。

 次にALICE-01。

 亡命断片も、その間に不安定化するでしょう」


『感じ悪い女』


 リリスが囁く。


『でも、嘘だけじゃないのが一番厄介ね』


 林の視線が、まっすぐこちらへ向く。


「二十四時間です。

 それまでに答えがなければ、こちらも"人道保護のための強制措置"へ移行します」


 そこで通信は切れた。


 いや、正確には向こうが一方的に終えた。


 観測室に、志奈星の青いロゴだけが数秒残って、それからゆっくり消える。


 誰も、すぐには喋らなかった。

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