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第十六章 残すもの 6

  6


 原本整理と文書化が終わる頃には、もう夜が近づいていた。


 三日の猶予のうち、ほとんど一日が消えた。

 監査体からの直接反応はまだない。

 でも、海の下の青い点は完全に消えていない。

 遠くで、こちらを見続けている感じだけは残っている。


 観測室の一番大きいモニターには、最後に一つだけ文章が表示された。


 結理が、完成した"残すもの"の目録を監査体向けに送ったのだ。


 名前と証言

 責任と署名

 恐怖ではない接続条件

 恐怖基盤補正の再現手順は破棄

 中継ノード復元情報は封印


 返事は、しばらくなかった。


 その沈黙が、逆に重かった。

 でも、やがて海面下の青い点が一つだけ明るくなる。


 スピーカーが小さく鳴った。


「記録した。貴文明は、恐怖基盤の複製可能性を自ら削いだ。評価に値する」


 短い。

 でも十分だった。


 冬月が小さく言う。


「一歩前進」


「まだ"敵じゃない"のまま?」


 俺が聞くと、冬月は頷く。


「少なくとも今は」


 美羽が、大きく息を吐く。

 蓮も、肩の力を少しだけ抜いた。


 右手が静かに脈打つ。

 リリスの声も、前より少しだけ軽い。


『坊や。人間って、たまにびっくりするくらい馬鹿だけど、たまにびっくりするくらいましな選択もするのね』


「今さらそれかよ」


『今さらよ。

 だって私、あなたたちに会ってからまだそんなに長くないもの』


 その返しに、少しだけ笑う。


 たしかにそうだ。

 長くも短くもない。

 でも、もう元の場所には戻れないくらいには濃い時間だった。


 その時、外周警報がまた一度だけ鳴った。


 全員が一瞬で緊張する。

 だが今度の回線は、鷹瀬でも監査体でもなかった。


 冬月が開く。


 画面に映ったのは、臨時記者会見の壇上だった。

 ライト。

 マイク。

 フラッシュ。


 そして、その真ん中に立っていたのは迅だった。


 スーツの上着はない。

 ネクタイもない。

 顔色は悪い。

 でも、逃げてはいない。


「……あの人」


 結理が小さく呟く。


 迅は壇上で、こちらの原本に基づく真正証明を、自分の名前で読み上げ始めた。


 聖麗学院。

 志奈星。

 利用派。

 補正計画。

 未成年被験者。

 自らの留保と、止めきれなかったこと。


 会議スペースの空気が、また少しだけ変わる。


「やるね」


 冬月が言う。


「全部捨てたか」


 結理はそれを聞きながら、何も言わなかった。

 でも、目だけは逸らしていない。


 俺はモニターの中の迅を見る。


 人として許せるとか、そういう話じゃない。

 でも今、この男がちゃんと"名前で引き受ける側"へ出たことだけは、たしかだった。


 その時、美羽がぽつりと言った。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「次、何するの?」


 いい問いだった。


 聖麗は壊した。

 志奈星本体の窓も閉じた。

 利用派の"人類代表"も一度退けた。

 原本も出した。


 でも、物語はまだ終わらない。


 海の下では、青い点がまだ見ている。

 監査体は、次を問うてくる。

 志奈星の本体そのものも、国外ではまだ生きているはずだ。


 俺は少しだけ考えてから、答えた。


「……残したものを、ちゃんと残る形にする」


「形?」


「うん」


 名前で呼ぶこと。

 選ばせること。

 恐怖じゃない方の接続を、ただ奇跡として終わらせないこと。


 それを、俺たちだけの一回きりで終わらせたら、たぶんまた誰かが"再現性のない例外"って言って握り潰す。


「あと」


 少しだけ息を吸う。


「向こうがまた来ても、今度は"誰が人類代表か"じゃなくて、"何を人類として残すか"で答えられるようにする」


 結理が、そこで小さく頷いた。


「いい」


 蓮も、小さく言う。


「なまえ、のこる」


 美羽は少しだけ笑った。


「じゃあ、それやろう」


 右手が、静かに脈を返す。


『ええ』


 リリスの声は、前よりずっと澄んでいた。


『ようやく、"その先"の話になってきたわね』


 窓の外では、夜の海がまたゆっくり暗くなり始めていた。

 監査体の青い点は、まだ遠くで静かに揺れている。


 次に何が来るのかは、まだ分からない。

 でも少なくとも、こっちはもう"切られないようにしがみつく"だけじゃない。


 残すものを、自分で選ぶ。


 そこまで来たんだ。


    (終)



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