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第十四章 迅の選択 1・2

 第十四章 迅の選択


   1


 潮見庁舎から持ち帰った防水ケースは、観測室の奥にある小さな会議スペースへすぐ運ばれた。

 ケースの中にあったのは、複数の音声媒体。

 既にラベルの擦れた磁気テープに、旧式の磁気ディスク、光学ディスク。

 そして、テーブルの上に広げられた書類の束。

 署名。押印。留保意見。補正計画書。

 どれも薄い紙なのに、置かれるたびに部屋の空気が重苦しくなる。


 冬月は最初に言った。


「結論から言う。全部そのまま表に出すのは危険」


 結理がすぐに顔を上げる。


「危険だから出すんでしょ」


「違う」


 冬月の声は低い。


「危険だから、出し方を選ぶの。

 ここにある原本には、蓮くんの母親の個人情報も、美羽さんの観察写真も、未成年の医療記録も混ざってる。

 全部を生で放れば、利用派は"個人情報の漏洩"と"被験者保護義務違反"で逆にこっちを潰す」


 それは正しい。

 正しいから、余計に困る。


 結理は数秒だけ黙って、それから低く言う。


「じゃあ、何を出す」


「三段階」


 冬月が指を折る。


「一段目。

 一般公開用に、署名と承認ラインと補正計画の存在だけを抜いた赤版。

 二段目。

 監督・法務・第三者監査向けに、原本照合可能な秘匿版。

 三段目。

 万一こっちが押さえられた時に自動で全部飛ぶ最終版」


 結理の目が細くなる。


「死んだら全部ばら撒く、ってこと」


「そういうこと」


「好き」


「褒め言葉として受け取るわ」


 そのやり取りだけで、少しだけ息がしやすくなる。

 でも、問題はまだ残っていた。


 俺はテーブルの上の一枚を見た。

 南門坂で撮られた、事故の前の俺と美羽の写真。


「これ、どうする」


 部屋が少しだけ静かになる。


 美羽は俺の少し後ろに立っていた。

 その写真を一度見て、それから目を逸らさない。


「出さないで」


 小さな声だった。

 でも、はっきりしていた。


「これは、私たちのじゃん。あっちの観察記録になってたとしても、外にばらまくのは違う」


 その言葉が、胸に落ちた。


 俺は頷いた。


「そうだな」


 結理も、少し遅れて頷いた。


「これは外に出さない。

 でも、使う」


「どう使う?」


 俺が聞くと、結理は写真を封筒へ戻しながら言った。


「鷹瀬と利用派が"ここまで考えていた"って、裏で突きつける材料にする。

 公開の燃料じゃなく、刺すための刃にする」


 冬月がそこで小さく息を吐く。


「それでいい」


 蓮は、会議スペースの端の椅子に座って黙っていた。

 右腕はまだ固定されている。

 でも、観察される側じゃなく、ここにいる一人として座っている。


 それが、昨日までと決定的に違った。


    2


 原本の整理は、思っていたより時間がかかった。


 紙の束を一つひとつ確認し、署名と印影を照合し、時系列に並べる。

 音声媒体は冬月の補佐が古い再生機でデジタル化し直し、ノイズを落とし、発言者ごとに切り分けていく作業が必要だった。


 その作業の途中で、また一つ嫌なものが出てきた。


 TSC-JP 緊急運用メモ / 鷹瀬清人 私印


 一見ただのメモだ。だが、その末尾に手書きで追記がされていた。


 ALICE-01の家族チャネルは、必要に応じて喪失刺激へ転換可能。

 段階的破断後に国家保護を提示すれば、依存先の付け替えは現実的。

 迅の留保は考慮不要。


 その最後の一文で、会議スペースの空気が変わった。


 考慮不要。


 迅の留保は、最初から無視するつもりだった。

 しかも"国家保護"で依存先を付け替える――つまり、俺から美羽を奪い、その直後に国家を"新しい拠り所"として差し出す計画だった。


「……人として終わってるわね」


 結理が低く言う。


 声は冷たい。

 でも、その冷たさの底に怒りが見えた。


 俺は言葉が出なかった。

 右手だけが、じわりと熱を持つ。


『分かりやすい男ね』


 リリスが囁く。


『支配を"保護"って呼ぶの、本当に好きなのよ。ああいう人たち』


 冬月がメモを別ケースへ分ける。


「これは一段目にも入れる。個人情報を切っても、鷹瀬の思想と意図は十分伝わる」


「迅の留保も?」


 結理が聞く。


 冬月は少し考えてから頷いた。


「入れる。でないと"全員が同じだった"って向こうにまとめられる」


 その時、端末が短く鳴った。


 結理が画面を見る。

 差出人の表示だけで、少しだけ表情が変わる。


「父さん」


 会議スペースが静まる。


「出るのか」


 俺が聞くと、結理は一瞬だけ迷って、それから通話を取った。

 スピーカーにはしない。

 でも、今のこの部屋で隠し通せる距離でもない。


「……何」


 向こうで何か言う。

 結理の目が少しだけ細くなる。


「今それを言うの」


 また何か。


 そのあと、結理はゆっくり顔を上げた。


「スピーカーで」


 短く言う。


 通話が部屋へ開かれる。


 迅の声は、いつもより少しだけ掠れていた。


『時間がない。

 だから単刀直入に言う』


「珍しいね」


 結理が返す。

 でも、そこにいつもの棘はあまりなかった。


 迅はそれに答えず、続けた。


『鷹瀬が四十時間後と言っていたレビューを、十三時間前倒しした。

 今夜二十三時、潮見庁舎で臨時審査が開かれる』


「十三時間?」


 冬月が低く言う。


『そうだ。しかも、議題は"ALICE-01と関連個体リリスの国家単独保護移管"へ絞られた』


 喉の奥が冷える。


 もう隠さない。

 鷹瀬は、完全に"今夜中に俺たちを国家の持つ箱へ入れる"気でいる。


『だから、原本を今夜のレビュー前に表へ出す必要がある』


 迅の声は低かった。

 でも、そこに今までよりはっきりした焦りがあった。


『そして、私も選ばなければならない』


 会議スペースが静まり返る。


 結理が、ほんの少しだけ息を止めるのが分かった。

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