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第十三章 潮見技術合同庁舎 6・7

 

   6


 金属扉の最後のロックが外れる音がした。


 乾いた電子音。

 重いシリンダーの回転。

 その次に、向こう側で誰かが短く息を吐く気配。


 鷹瀬だ。


「結理、先」


 俺が低く言う。


「いや、バッグ持ってるのあなた――」


 言い合っている暇はなかった。


 保全庫の奥、白い書庫の陰にしゃがみ込んで、床の金属パネルを探る。

 迅が言っていた通りなら、そこに手動レバーがあるはずだ。


「ここ」


 結理が棚の下をライトで照らす。


 薄い取っ手。

 いや、取っ手というより、工具穴みたいな小さな窪みだ。


「これ、素手じゃ――」


 最後まで言わせず、俺は右手を差し込んでいた。


 ひんやりした金属。

 その奥に、やたらと複雑なロック機構。

 鷹瀬の趣味だろう。

 "知っている人間だけが開けられる"じゃなく、"最初から特定の個体だけが開けられるように作られた"もののようだった。


『下。そこ、二重で噛んでる』


 リリスが囁く。


 言われた通りに指先を滑らせる。

 内部の爪を外す。

 次の瞬間、重いレバーが手の中でがくんと下へ落ちた。


 床がゆっくり裂ける。


 書庫の奥、白い床の一部が左右に開き、その下に黒い縦穴が現れた。

 人一人がようやく通れるくらいの狭さだ。


「当たり」


 結理が防水ケースをバッグへ押し込みながら言う。

 その顔は冷たい。でも呼吸は速い。


 同時に、保全庫の扉が外から開いた。


 鷹瀬が入ってくる。

 その後ろに黒スーツが二人。

 どちらも銃は抜いていない。

 代わりに、封筒と認証端末を持っていた。


「諸井静男」


 静かな声だった。


「それを持って下りるな」


「下りるよ」


 俺が返すと、鷹瀬の目が一瞬だけ細くなる。


「原本を持ち出したところで、君に勝ち目はない。

 国家の手続きは紙一枚では止まらない」


「止まるとは思ってない」


「なら意味がない」


「意味はある」


 結理が冷たく言う。


「あなたたちが"なかったこと"にしたい名前と順番を、もう一回ちゃんと並べ直せる」


 鷹瀬は結理を見る。

 一瞬だけ、娘の知人を見る目じゃない。

 "裏切った内部者"を見る目だ。


「天城結理。

 君は父親と同じだな。

 最後の最後で情に寄る」


「寄ってるんじゃない」


 結理は一歩も引かなかった。


「情が混じらない人間が、どれだけ醜いか見たから止めてるだけ」


 その返しに、鷹瀬がほんの少しだけ口元を歪める。


「だから甘い」


「あなたよりは人間よ」


 もう十分だと思った。


「行くぞ」


 結理の肩を押す。

 結理は一瞬だけ迷って、それから縦穴へ脚を下ろした。


 その瞬間、黒スーツの一人が動く。

 バッグだ。


 真正面からじゃなく、斜め後ろからストラップだけを取ろうとする。

 手慣れている。


 でも、今の俺の右手はそっちの動線も見える。


 掴まない。

 ただ、その手首を"逸らす"。


 右手を一払するだけで、男の指先がバッグではなく書庫の縁へぶつかった。

 持っていた認証端末が床へ落ち、火花を散らす。


「っ……!」


 そこで初めて、鷹瀬の顔から余裕が一枚剥がれた。


「鷹瀬」


 俺は縦穴の縁に立ったまま言う。


「その写真、南門坂で撮ったの、お前の指示か」


 一拍。


 その一拍だけで充分だった。


 鷹瀬は否定しない。

 ただ、少しだけ肩の位置が変わる。


「必要だった」


 それだけだった。


 その一言で、胸の奥が冷たく固まる。


 でも、怒りは暴発しなかった。

 今は美羽がいないからかもしれない。

 その代わり、熱が一点に収束する。


「そうか」


 低く返して、俺は近くの可動式書庫を右手で押した。


 押しただけのつもりだった。

 だが、重い書庫は固定レールごと横へずれ、鷹瀬たちの前へ派手な音を立てて倒れ込む。


「行け!」


 結理が下から叫ぶ。


 俺もそのまま縦穴へ飛び込んだ。


 床板が、上で閉まる。


 最後に聞こえたのは、鷹瀬が珍しく感情を露わにして叩きつけた「逃がすな」という声だった。


   7


 縦穴の先は、想像していた"非常脱出口"とはちがって……汚い。狭い。湿っている。


 古い下水隔離管のメンテナンス用シャフトだ。

 鉄の梯子を四メートルほど下りた先に、腰を折らないと進めない円筒形の通路が続いている。


「国家の逃げ道って、いつもこうなの?」


 結理が前を向いたまま言う。


「たぶん、綺麗だと嫌なんだろ」


「分かる気がして嫌」


 そのやり取りが、逆に少しだけ救いだった。


 上では、床板をこじ開ける鈍い音が響いている。

 時間はない。


 イヤーピースに、迅の声が入る。


『下りたな』


「おかげさまで」


 結理が棘のある声で返す。


『礼はいらない。

 だが急げ。

 鷹瀬は保全庫のサブ図面も知っている。

 迂回して先回りされる可能性が高い』


「だったらもう少し早く言って」


『今言った』


 本当に、必要なことしか言わない。


『右へ三十メートル進むと、汚水分岐。

 そこを左だ。 右へ行くと処理槽で詰む』


「詰むって言うな」


 円筒形の通路は、二人並ぶには狭すぎた。

 結理が先。俺が後ろ。

 バッグは俺。端末とケースの重みが肩に食い込む。


 背後から、遠く金属扉が開く音がした。


「追ってきた」


 俺が言うと、結理が短く返す。


「知ってる」


 声に乱れはない。

 でも呼吸は少し速い。


 イヤーピースの向こうで、美羽が言う。


『お兄ちゃん』


「ん?」


『今、顔見えないけど、ちゃんと息して』


「お前、最近そればっかだな」

『効くから』

 その通りだった。

 言われた通りに一度深く息を吸う。

 湿った空気は最悪だが、それでも気持ちが少しだけ戻る。


 分岐に着く。

 左へ折れる。


 その直後、後方の通路で誰かが足を滑らせた音がした。

 鷹瀬の部下かもしれない。


『少しだけ稼げた』


 リリスが言う。


『でも、あの男はきっと近いわよ』


「分かるのか」


『ええ』


 嫌な感覚だが、分かる気もした。


 通路の先に、ようやく少しだけ広い空間が見える。


 ポンプ室だ。


 床に水。

 古い制御盤。

 非常灯。


 そこまで辿り着いた瞬間、結理が壁際のメンテ端子へ端末を突っ込む。


「何してる」


「出口を開ける」


「開けるだけならさっさと――」


「静かに」


 結理の声が低くなる。


 その表情を見た瞬間、嫌な予感が走った。


「出口の先、庁舎の地下搬入口。……でも、すでに誰かが待ってる」


「鷹瀬か」


「違う。

 この足運び、もっと雑」


 イヤーピースに冬月の声が入る。


『潮見外周のカメラ、一つだけ生きてる。

 搬入口前に白いバン一台。

 志奈星のロゴ消してるけど、あの停め方は向こうの回収班ね』


 最悪だ。


 前に志奈星。

 後ろに鷹瀬。


 挟まれた。


 結理が端末を抜きながら言う。


「……じゃあ、ここで割る」


「何を」


「前と後ろ」


 一瞬、意味が分からない。


 結理はポンプ室の配管図を画面へ出した。


「この部屋、古い緊急排水ラインに繋がってる。

 汚水じゃない、雨水吐き出し用。

 一度だけ全開にできる」


「それやったら」


「後ろの追手が流れる。

 前の志奈星班も、搬入口の足場が崩れる」


「俺たちは」


「濡れる。

 でも死なないはず」


「"はず"かよ」


「文句ある?」


 文句はあった。

 でも、代案がない。


 背後の通路で、明確な足音が一つだけ近づいてくる。

 部下じゃない。

 歩幅が一定で、迷いがない。


 鷹瀬だ。


「結理」


「三十秒」


「長い」


「短い」


 ポンプ室の重たい空気の中で、右手がじり、と熱を持った。

 焦りと怒りと、失いたくないという感情が全部混ざっている。


『坊や』


 リリスが囁く。


『今度は、あの男とちゃんと話す番かもしれないわよ』


 まったく嬉しくなかった。


 結理が叫ぶ。


 出口側の搬入口シャッターが、ちょうどその瞬間に半分だけ開いた。

 前にいた志奈星班も、足場を取られて態勢を崩している。


 俺たちはその隙間へ飛び込んだ。


 背後で、鷹瀬が水を掻き分けながら怒鳴る。


「諸井!」


 振り返る。


 濁流の中で、あいつの顔だけが妙に冷たくはっきり見えた。


「次はもう、逃がさない」


 低い声だった。

 でも、今までで一番本音に近かった。


 俺は立ち止まらず言い返す。


「こっちも次は、逃げるだけじゃ終わらないぜ」


 その言葉だけを残して、結理と一緒に搬入口の闇へ飛び出した。


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