第十三章 潮見技術合同庁舎 1・2
第十三章 潮見技術合同庁舎
1
潮見技術合同庁舎は、遠くから見るとただの綺麗な行政ビルだった。
夜の湾岸に白く浮かぶ、角ばったガラスの箱。
無駄のない外壁。
高くもなく低くもない、いかにも"機能だけでできています"という顔。
けれど近づくほど、それが一番厄介な種類の建物だと分かる。
派手じゃない。
目立たない。
だからこそ、ここで何が決められているのかを外から想像する人間が少ない。
俺と結理は、海上観測施設からさらに小さな保守船へ乗り換え、そのまま港湾の排水管理区画へ入った。
表向きは、深夜の設備点検チーム。
作業着。ヘルメット。マスク。
胸元には、迅が通した仮の認証カード。
「似合ってる」
結理が小さく言う。
「褒めてるのか」
「別に。
でも、普通に見える」
それがたぶん一番大事だった。
イヤーピースの向こうで、美羽の声がする。
『聞こえる?』
「聞こえる」
『潮見の外壁カメラ、冬月さんが一部拾ってる。
北西の搬入口、今なら人少ない』
「ありがとな」
『うん。
……お兄ちゃん』
「ん?」
『ちゃんと帰ってきて』
返事は短くなる。
「帰る」
その一言だけで、右手の熱が少しだけ整う。
蓮の声も、少し遅れて入る。
『……てつの、におい。
しおみ、ちかい』
港湾の油と塩の匂いに混じって、たしかに鉄の冷たい匂いがした。
白い部屋の下とは違う。
もっと乾いていて、もっと"手続き"の匂いがする。
「緊張してる?」
結理が訊く。
「してる」
「よかった」
「何がだよ」
「してないって言われる方が困る」
その返しだけ、少しだけいつもの結理だった。
保守船が、庁舎裏の排水設備桟橋へ静かに接岸する。
そこから先は、もう徒歩だ。
迅の声が最後に入った。
『地下搬送シャフトの点検扉、四分だけ開ける。
その後は自力で抜けろ』
「四分ばっかりだな」
『贅沢を言うな』
言い返す前に回線が切れる。
本当に、必要なことだけ残して切る人だ。
『父親らしくないわね』
リリスが囁く。
「今さらだろ」
俺と結理は、濡れたコンクリートの上へ降り立った。
潮見技術合同庁舎。
人間側の原本が眠っている箱。
そして、鷹瀬の土俵。
今夜はこっちから、その箱の底へ手を入れる。
2
地下搬送シャフトは、建物が隠している呼吸穴みたいな場所だった。
排水設備の壁に紛れた細い鉄扉。
薄い赤ランプ。
カード認証のあと、さらに物理錠。
結理が迅の送ってきた一時キーを差し込む。
電子音。
赤が緑へ変わる。
「開いた」
「早く」
二人同時に中へ滑り込む。
扉が閉まると、外の海風と油の匂いが消えた。
代わりに、冷えたコンクリートと消毒の匂いが鼻に残る。
シャフトの中は、思ったより広い。
人と台車がすれ違えるくらいの幅。
片側に非常用エレベータのレール、反対側に保守階段。
頭上の蛍光灯は半分しか点いていない。
「ここからB6まで下りる。
B8へは直接行けない」
結理が端末を確認しながら言う。
「どうして」
「B8は保全庫直結だから、独立認証。
B6の保守回廊から横に回る」
「面倒だな」
「面倒じゃない保管庫なんてない」
階段を下りる。
足音が響くたびに、ここが"人の目より手続きの方を信用してる建物"なんだと分かる。
B6の保守回廊へ出たところで、結理が急に止まった。
「待って」
「何だ」
「前、清掃員二人」
イヤーピースに小さくノイズが入り、その向こうで美羽が言う。
『右の角。
カート押してる人たち』
結理の端末に、外部から引いた低解像度のカメラ映像が映る。
白い作業服の二人組。
無害そうに見える。
でも、こんな時間のB6を歩いてる時点で十分に邪魔だ。
「戻るか?」
「いや」
結理は少しだけ考えてから、ヘルメットの角度を直した。
「そのまま行く。
止められたら設備点検で押し通す」
「強気だな」
「弱気の方が目立つ」
言うなり、普通の歩幅で角を曲がった。
俺も続く。
清掃員は本当にただの清掃員だったらしく、こっちを一瞥しただけで通り過ぎた。
肩の力が抜ける。
その時、右手がじわりと熱を持った。
「……今の何だ」
「何が」
結理は歩幅を緩めない。
「一人、普通じゃなかった。
清掃員の片方、目が空っぽだった」
結理の顔つきが変わる。
「断片?」
「分からない。
でも、少しだけ"上書き"っぽかった」
イヤーピースの向こうで、冬月さんの声が低く入る。
『潮見、もう浸食が始まってる可能性ある。
人間側だけじゃないと思って動いて』
最悪だ。
人間の利用派だけでも面倒なのに、その箱の中へ"向こう側の小さい断片"まで入り始めている。
「急ごう」
結理が短く言った。
「B8より先に、庁舎そのものが汚染されると面倒すぎる」
「今さら綺麗な庁舎みたいに言うな」
「それはそう」
その返しだけ、少しだけ笑いそうになった。
3
B6の保守回廊を抜けると、空気が変わった。
照明が落ち着き、壁が白くなり、床に敷かれた防音材が足音を殺す。
保守区画じゃない。
ここから先は、ちゃんと"人が秘密を持って歩くための廊下"だ。
「この先」
結理が画面を指す。
「左が対人確認室。
右へ行くと保全庫前の認証廊下」
「蓮が言ってた赤いランプって」
「たぶん、確認室の入口」
その言葉と同時に、廊下の先で赤い光が見えた。
細いドア枠に埋め込まれたランプ。
無人のはずなのに、やたらと"使われていた"感じが残っている。
俺の足が、そこで少しだけ止まる。
「見る?」
結理が低く訊く。
見たくない。
でも、見ないと持ち出せないものがある気がした。
「見る」
ドアは、予想外にあっさり開いた。
中は、白くも黒くもない部屋だった。
灰色の机。
面談用の椅子が二脚。
壁一面の曇りガラス。
"怖くないですよ"という顔をした、最悪の部屋。
机の上には、録音機器の古いドックだけが残っていた。
紙はない。
だが結理がすぐ床際のパネルへしゃがみ込む。
「この部屋、デジタル保管じゃない。
一次音声を物理媒体で抜いてる」
「そんなの分かるのか」
「こういう"いざという時改竄しやすいけど、普段は見つかりにくい"やり方、大人が大好きなの」
本当に嫌な方向へ頭が回る。
結理が小さな工具でパネルを外す。
その奥から、細い磁気カセットみたいなものが二本出てきた。
「当たり」
一本のラベルには、手書きでこうあった。
Sagara Ren / parent interview
もう一本には。
Moroi Shizuo / preliminary briefing draft
喉が少しだけ固くなる。
「俺の……」
「"予定だった"もの」
結理がそれをすぐ保護ケースへ入れる。
「たぶん、まだ実施されてない。
でも、下書きだけは残してる」
俺は面談室をもう一度見回した。
この部屋で、蓮は"説明を受けたことにされた"のかもしれない。
ここで、俺も"補正前説明"を受けた形にされる予定だったのかもしれない。
「……ほんとに、全部作ってるんだな」
思わず言うと、イヤーピースの向こうで蓮の声が小さく入る。
『そこ、いやなへや』
「知ってる」
『でも、しずお、なまえ、もってきて』
短い言葉だった。
それだけで、さっきより少し前へ進みやすくなる。
「持って帰る」
面談室を出る。
対人確認室の赤いランプが、背後で静かに灯ったままだった。




