第十二章 三日の猶予 4・5
4
移送までの数時間、海上施設は一気に"戦時"の顔になった。
冬月の補佐二人が、施設の外部カメラと海象観測をアナログ記録へ移し替える。
第三棟から回収したデータは、結理が三つの層へ分散した。
一つは報道用。
一つは法務・監督機関向け。
そして最後の一つが、監査体へ再提示可能な"人類側の回答集"として整理される。
「監査体へ、再提示?」
俺が聞くと、結理は端末から目を離さないまま答えた。
「次に来た時、"前回こうだったよね"ってこちらからも参照できるようにするの。
向こうだけが採点表を持つ形にしない」
「すごいな、お前」
「褒めてないでこれ確認して」
画面を向けられる。
そこには、さっきの四個体連結の観測ログが波形ごと整理されていた。
蓮の恐怖優位が下がった時刻。
美羽が笑った時のノイズ低下。
リリスが"私"と名乗った瞬間の境界保持値。
「こういうの、向こうに見せるのか」
「必要ならね。
監査体は言葉だけじゃなく、形も見る。
だったらこっちも形を持つ」
その発想が、前よりずっと頼もしく見える。
冬月が遠くから言う。
「接触派は理想主義じゃない。
話が通じるなら、通じたログを残す。
それだけ」
「なんか、ちょっと安心した」
美羽がぽつりと言うと、冬月は少しだけ肩をすくめた。
「安心はしない方がいい。
でも絶望だけもしない方がいい」
蓮はその間、海上施設の小さな資料室で、冬月の補佐が持ってきた港湾地図を見ていた。
正確には、見ていたというより、記憶の断片をそこへ重ねようとしていた。
「ここ」
蓮が指したのは、潮見技術合同庁舎の地下搬入口側の非常用シャフトだった。
「おれ、ここから、でた」
「保全庫から?」
結理がすぐに食いつく。
蓮は曖昧に頷く。
「つれてかれたあと、もどるとき。
あかいランプ。
てつのにおい。
ひくい、おと」
迅が回線越しに言う。
『非常用搬送シャフトだな。
普段は施錠されているが、レビュー前の搬入で開く可能性がある』
「正面じゃなくて、地下から入れる」
俺が言うと、迅は肯定した。
『そうだ。
だが、一度入ったら上へ逃げるしかない。
下へ戻る動線は塞がれると思え』
「毎回それだな」
『毎回そういう施設を相手にしてるからな』
反論できない。
移送計画はこうなった。
夜半、海上施設から気象観測艇を装って移動。
沖で別船へ乗り換え、湾岸の下水保守船として潮見庁舎裏へ接近。
地下搬送シャフトから、俺と結理が侵入。
美羽、蓮、冬月は海上施設で待機し、音声リンクと観測支援。
迅は外で法務・対抗起案を回しながら、鷹瀬の動線を遅らせる。
「生きて帰ってくることが最優先」
冬月が最後に言う。
「原本全部持ち帰れなくても、名前と署名の繋がりが取れれば最低限は勝てる。
逆に、二人とも持っていかれたら何も残らない」
それは、ひどく現実的でありがたい言葉だった。
5
出発前、俺はデッキの隅で一人になった。
本当は一人になりたかったわけじゃない。
でも、頭の中を少しだけ整理したかった。
海はもう昼の色になっている。
灰色の波。
遠くを通る貨物船。
海上施設の鉄骨を叩く風。
右手を見下ろす。
新しい手袋の下で、黒い筋はまだ静かに脈打っていた。
『怖い?』
リリスが囁く。
「少し」
『嘘。だいぶ』
「お前、そういうとこだけ正直だな」
リリスが小さく笑う。
『だって、潮見の庁舎にあるのは人間側の"原本"だけじゃないもの。
あなたがどういうふうに壊される予定だったか、その設計図がある』
その通りだ。
蓮の記録。
母親の面会ログ。
白い部屋の原本。
そして、俺の補正計画。
あそこへ行くってことは、まだ起きていない"俺の未来の壊れ方"を見に行くようなものでもある。
「お前は」
小さく聞く。
「見たいのか?」
少しだけ間があった。
『見たくない』
リリスは正直に言った。
『でも、見ないと奪い返せないなら行く。
だって、あそこに残ってる"あなたの設計図"は、私にとっても檻の設計図だもの』
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……一緒だな」
『ええ。
今さらだけど』
その時、背後で扉が開く音がした。
振り返ると、結理だった。
濃紺の作業ジャケット。
海風で髪が少し乱れている。
それでも、相変わらず妙に整って見える。
「探した」
「隠れてたわけじゃない」
「似たようなもの」
結理は隣まで来て、手すりにもたれた。
数秒、何も言わない。
「父さんから、さっき別回線で来た」
「何て」
「"鷹瀬は今夜、正式手続きより先にあなたたちを庁舎内で押さえる気だ"って」
「予告かよ」
「忠告らしい」
結理はそこで少しだけ目を細めた。
「本当に、あの人どっちなのって思う」
「両方なんだろ」
「最悪」
「同意」
その短いやり取りのあと、結理は視線を海へ向けたまま言った。
「潮見、危ないよ」
「知ってる」
「たぶん、今までで一番」
「知ってるって」
そう返すと、結理は少しだけ黙った。
それから、小さく続ける。
「それでも、私が行く理由は分かる?」
聞かれて、少しだけ考える。
「原本を押さえたいから」
「それだけじゃない」
「父親の署名を、自分で見たいから」
今度は、結理が少しだけ息を呑んだ。
図星だったんだろう。
「……そう」
声が、ほんの少しだけ掠れる。
「逃げると、一生あれに名前を付けられる気がする。
"父の仕事だから"とか、"国の判断だったから"とか。
でも私は、ちゃんと"私が見た"って言える位置にいたい」
海風が、二人の間を抜ける。
「だから、もし私が止まったら」
「蹴る」
俺が言うと、結理は小さく笑った。
「言う前に言うな」
「前も約束しただろ」
「そうだった」
その笑いはすぐ消える。
代わりに、結理は少しだけ真面目な顔に戻った。
「諸井」
「ん?」
「帰ってきて」
その一言で、時間が少しだけ止まった気がした。
美羽の"帰ってきて"とは違う。
同じ言葉なのに、意味の重なり方が少し違う。
結理はこっちを見ていない。
海の方を見たまま、でもはっきり言った。
「資料より先に、まずそれ」
喉の奥が少しだけ詰まる。
「……お前もな」
それが精一杯だった。
結理は返事の代わりに、小さく頷いた。
右手が、静かに熱を返す。
『ふふ』
リリスが囁く。
『坊や、ほんとに忙しいわね』
「うるさい」
『でも、嫌いじゃないでしょ?』
それには答えなかった。
答えなくても、たぶんばれている。
遠くで、出航準備の汽笛が短く鳴った。
潮見へ向かう時間だ。
俺たちは手すりから離れた。
次に戻る時、この海上施設がまだ"避難先"のまま残っている保証はない。
でも、だからこそ行くしかない。
人間側の敵を、今度こそ名前付きで止めるために。




