第十二章 三日の猶予 1・2・3
第十二章 三日の猶予
1
監査体が「次の審査まで、暫定猶予を与える」と言って去ってから、海上観測施設の空気は少しだけ変わった。
安全になったわけじゃない。
利用派の船も、志奈星の残り火も、まだ海の向こうにいる。
それでも、さっきまでみたいな"いつ剪定されてもおかしくない"圧は、一段だけ薄くなっていた。
だからといって、誰も安堵しきれなかった。
観測室の隣にある会議スペースに移っても、みんな疲れているくせに、誰一人ちゃんと座り込もうとはしない。
冬月は端末を三台同時に開き、結理は回収したデータを法務向けと報道向けと観測用に振り分けている。
美羽は眠そうな顔のまま、蓮に温かい飲み物を持っていき、俺の方へも無言でカップを置いた。
「ありがとう」
言うと、美羽は小さく頷くだけで、すぐ蓮の隣へ戻っていく。
蓮は相変わらず毛布を肩にかけたままだった。
けれど、観測室で監査体と対話したあとの目は、昨日までより少しだけ"遠くを見ている"ように見えた。
『疲れたでしょう、坊や』
右手の奥で、リリスが静かに言う。
「お前もな」
『ええ。でも、あれを相手にしてまだほどけてないんだから、上出来よ』
その言い方が少しだけ嬉しそうで、腹立たしいような、安心するような、よく分からない気分になる。
その時、会議卓の中央に置いてあった通信端末が短く鳴った。
冬月が確認する。
画面を見た瞬間、顔色は変わらないのに、声だけが一段低くなった。
「迅」
スピーカーに切り替える。
少しノイズが走って、それから迅の低い声が部屋へ落ちた。
『状況が変わった』
「変わり続けてるでしょ」
結理が冷たく返す。
だが迅はその皮肉を受け流した。
『監査体との対話ログを、鷹瀬のラインも拾った。
今、利用派は二つに割れている』
「二つ?」
俺が聞くと、迅は簡潔に言った。
『一つは、監査体が敵対断定を保留した以上、無理に手を出せば逆効果だと考える側。
もう一つは、猶予がある今のうちにALICE-01と残余宿主を確保し、国家の"人類代表"として一本化すべきだと考える側』
「後者が鷹瀬だろ」
『そうだ』
短い沈黙。
『そして、鷹瀬は後者を押し切るために、四十時間後の緊急レビューを設定した』
「四十時間」
結理がすぐに時計を見た。
「早いね」
『早い。だが監査体の猶予が最短で三日だと分かった以上、あいつはその前に枠を作りたい。
"監査体と対話できる人類代表は国家だけだ"という形を、正式文書にしたいんだ』
胃の奥が冷える。
要するに、監査体が敵対断定しなかったことすら、あいつらは「だから国家管理下で対話を独占する理由」に変えようとしている。
「気持ち悪いな」
思わず呟くと、迅の声が返ってきた。
『同感だ』
珍しく、そこに迷いがなかった。
2
「四十時間後のレビューって、どこでやるの」
結理が端末を引き寄せながら聞く。
迅は少しだけ間を置いてから答えた。
『潮見技術合同庁舎。
TSC-JPの予備審査区画だ』
その名前だけで、結理の目が少しだけ細くなる。
「父さんの出入りしてるとこ」
『そうだ』
「じゃあ、また"国家のため"って顔した人たちが、密室で勝手に決めるわけだ」
『その通りだ』
迅は否定しない。
『ただし、今回は決めさせない余地がある』
冬月がそこで口を挟んだ。
「何が必要?」
『原本だ』
迅の声が少しだけ硬くなる。
『聖麗学院や志奈星のデータは、今あるだけでも十分に毒だ。
だが、鷹瀬は"民間側の暴走"として切り離しにかかる。
それを止めるには、利用派自身の署名と、補正計画への関与を示す原本がいる』
結理がすぐに別画面を開く。
「第三棟で取った承認ラインじゃ足りない?」
『足りない。
デジタルは"改竄された"で押し切られる。
鷹瀬はそこまで平然とやる』
冬月が低く息を吐く。
「紙ね」
『正確には、紙と隔離保管された一次媒体だ』
迅が続ける。
『潮見庁舎の地下八階、予備保全庫。
そこに、利用派の紙承認、原録音、未電子化の面会記録、補正試験の実施順序書が保管されている』
「なんでそんなの知ってるんだよ」
俺が聞くと、迅は一拍だけ黙った。
『私が作った保全系統だからだ』
その一言で、会議スペースの空気が重く沈む。
結理は何も言わない。
でも、その沈黙が一番きつかった。
迅はすぐに続けた。
『だからこそ、今なら穴も分かる。
レビュー開始前にそこを抜けるなら、鷹瀬の"人類代表化"をかなりの確率で止められる』
「かなりの確率、ね」
結理が冷たく言う。
『絶対とは言わない』
「知ってる」
「潮見庁舎……」
俺がその名を反芻した時だった。
会議スペースの隅で、蓮が小さく顔を上げた。
「しおみ」
みんなの視線が一斉にそっちへ向く。
蓮は自分の右腕を見たまま、ゆっくりと言った。
「そこ、しってる」
喉の奥が少し固くなる。
「どういう意味だ」
「おれ、つれてかれた。
うみじゃない、ちかい、へや。
かみに、あかいしるし。
たかせって、なまえ、きいた」
結理がすぐに端末を操作する。
潮見技術合同庁舎の古い配置図。
地下八階の予備保全庫。
その横に、小さな面談室の記録。
「……ある」
結理が低く言う。
「保全庫の手前に"対人確認室"ってある。
未成年被験者への説明・同意を偽装するための部屋」
蓮の顔が少しだけ歪む。
「しろくない、へや。でも、こわいへや」
つまり、蓮はそこへ行かされたことがある。
白い部屋で壊される前に、利用派の"正規手続き"に見せかけた部屋へ。
「……行くしかないな」
そう言うと、右手が静かに熱を返す。
『ええ』
リリスが低く囁く。
『今度は、人間の方の"原本"を奪いにね』
3
作戦は、前のどの潜入よりも嫌な意味で現実的だった。
聖麗学院や志奈星本体みたいに、夜の隙間や古い通路だけでは抜けられない。
潮見技術合同庁舎は、国家側の合同施設だ。
紙保全庫が地下八階にあるとしても、そこへ至るまでに認証、監視、警備、そして何より"正規の人間の流れ"がある。
だから今回は、隠れるより"紛れ込む"が主になる。
「レビュー前の予備審査準備で、庁舎内は今夜から明日の朝にかけて一番出入りが増える」
迅が説明する。
『清掃。資料搬入。機材調整。記録保全担当。
普段なら目立つ顔も、その時間だけは埋もれる』
「で、どう紛れる」
俺が聞くと、迅は即答した。
『結理と諸井静男くんの二人で入る。
肩書は外部医療事故検証チームの保全補助。
仮の認証はこっちで通す』
「また俺を入れるのかよ」
『お前が必要だ』
「なんで」
迅の声が少しだけ硬くなる。
『予備保全庫の最後のロックに、ALICE系統の生体反応照合が組み込まれている可能性が高い。
利用派は"自分たちしか開けられない箱"として、お前の波形を参照キーに使ったはずだ』
胃の奥が冷たくなる。
「つまり、最初から俺を鍵にするつもりだったってことか」
『そうだ』
即答。
その容赦のなさだけは、本当に嫌になる。
結理がそこで言う。
「私も行くのは当然として、蓮は?」
『行かせない』
冬月がすぐ答えた。
「蓮くんはここ。あなたも、美羽さんも、波形を安定させる軸として残る」
「私も?」
美羽が少しだけ首を傾げる。
冬月は頷く。
「潮見へ行く二人が、庁舎の下で何を見るか分からない。
外から声で支える役が必要。
今までの流れを見ても、その役に一番向いてるのは美羽さん」
美羽は少しだけ黙った。
「……分かった」
それから俺を見る。
「お兄ちゃん、また私の声いる?」
「いる」
即答だった。
迷うところじゃない。
右手の熱が、言葉に反応して少しだけ整う。
結理がそこで短く言った。
「私も助かる」
一瞬だけ会議スペースが静まる。
結理自身も、言ってから少し驚いたみたいな顔になった。
でもすぐに、いつもの薄い表情へ戻す。
「……通信役が増えると、ノイズが散るから」
言い訳が雑すぎる。
「そういうことにしとく」
俺が返すと、結理は小さく睨んだ。
でも、その目つきは、少しだけ柔らかかった。




