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第十一章 対面審査体 5

 

   5


「比較を続ける」


 対面審査体が、青い目で俺たちを見る。


 --剪定優先群は排除した。

 --次を示せ。

 --個体化が、恐怖優位を越えて維持される証左を示せ。


「証左って、いちいち腹立つな」


 小さく呟くと、美羽が少しだけ笑った。


 その笑い声を聞いた瞬間、海面下の青い点の一つが、ほんのわずかに揺れた。

 まるで"知らない反応"に触れたみたいに。


 冬月がすぐに言う。


「今の、拾ってる」


「笑いも観測対象かよ」


「たぶん、向こうにはまだ"ただ安心して笑う"って波形が薄いのよ」


 リリスが低く囁く。


『集合では、笑いは効率の副産物でしかないもの。

 ああいうの、苦手なのよ』


「苦手ってことは効くのか」


『ええ。だって、意味がないのに残るでしょう?』


 対面審査体の視線が、美羽へ一瞬だけ止まる。


 --安定因子。

 --なぜ笑った。


 本人に聞くのかよ、と思う。


 でも美羽は、少しだけ考えてから答えた。


「嬉しかったから」


 --何が。


「蓮くんが、"大丈夫にする"って自分で言ったから」


 青い点がまた少しだけ揺れる。


 --痛みと恐怖の状態で、嬉しさが優位に出るのか。


「出るよ」


 美羽は平然としている。


「毎回じゃないけど。

 でも、出る時は出る」


 その返答に、結理が端末を見たまま小さく笑う。


「教科書にしたいくらい分かりやすい」



「教科書にするな」


 俺が言うと、結理は肩をすくめた。



「冗談。……半分は」



「怖いこと言うな」




 対面審査体は次に、蓮を見る。


 --残余宿主、相良蓮。

 --恐怖優位から離脱しつつある。

 --理由を言語化せよ。


 蓮は少しだけ目を伏せる。

 それから、麻酔弾の痛みが残る右腕を見た。


「……おれ、こわいと、つよくなれるって、いわれてた」


 声はまだ掠れている。

 でも、途中で途切れない。


「でも、それ、さむかった。いまは、いたいけど、なまえ、よばれる」


 そこで俺を見る。

 次に美羽。

 最後に、自分の右腕。


「だから、こっちのが、まし」


 対面審査体は少しだけ沈黙した。


 海面下の青い点が、さっきよりさらにゆっくり脈打つ。

 急いでいない。

 比べている。


 --"まし"を選択基準にするのか。


 今度は、結理が口を開いた。


「そう。

 人間はだいたいそうする」


 全員が一瞬だけ結理を見る。


 結理は淡々と続ける。


「最善がない時に、最悪じゃない方を選ぶ。

 その積み重ねで関係も制度も作る。

 合理的じゃないけど、現実的」


 対面審査体の青い目が、今度は結理に止まる。


 --剪定優先群ではない個体。

 --冷却と接続を両立している。

 --分類困難。


 結理がそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。


「ありがとう、でいいのかな」


「たぶん違う」


 俺が返すと、美羽が少しだけ笑う。

 その笑いに、青い点がまた揺れる。


 監査体は本当に、こういう"無駄だけど残るもの"に弱いのかもしれない。


 そこで、対面審査体の視線が最後に俺へ向いた。


 --宿主、諸井静男。

 --お前は何を保持したい。


 観測室が静まり返る。


 何を保持したいか。


 自由とか、学校生活とか、普通の日常とか、そういう答えもある。

 でも今この瞬間に一番はっきりしているのは、もっと別のものだった。


「名前だよ」


 迷わず言う。


「蓮の名前。

 美羽の名前。

 リリスの名前。

 そして……俺の名前」


 右手が静かに脈打つ。


「コードとか症例とか資産とか、そういうのに変えられても残る方を保持したい。

 それが切れたら、多分お前らの言う"安定"より先に、人間じゃなくなる」


 対面審査体は、すぐには答えなかった。


 その代わり、観測室のスピーカーだけじゃなく、海の下からも小さな共鳴音が返ってくる。

 まるで、施設全体がその答えを反芻しているみたいに。


 やがて、声が落ちてきた。


 --名称保持を、存在保持と同義に置くか。

 --非効率。

 --だが、切断後も残存率が高い理由として整合する。


「難しい言い方やめろ」


 思わず言う。


「分かったのか、分かってないのか、どっちだよ」


 対面審査体は、そこでほんのわずかに首を傾げた。


 --比較を更新する。

 --剪定延期を、暫定継続。

 --敵対文明とは、現時点で断定しない。


 観測室の空気が、そこで初めて少しだけほどけた。


 冬月が、大きくはないが確かな息を吐く。

 結理も、端末を握る手の力が少しだけ抜ける。

 美羽はまだ俺の袖を掴んでいたが、その指先の震えがようやく止まった。


 でも、対面審査体はそこで終わらなかった。


 --ただし。

 --剪定優先群が文明の主流となる場合。

 --あるいは、逸失断片リリスが個体化感染を拡張する場合。

 --再審査を待たず剪定へ移る。


 条件付きだ。

 当然だろう。


 でも、それでも。


 今この瞬間に「敵対文明とは断定しない」と言わせたのは、大きかった。


「……十分だ」


 小さく呟くと、リリスがすぐに返した。


『ええ。十分すぎるくらいよ』


 その声には、安堵が混じっていた。

 初めて聞いた気がする。


 そして次の瞬間。


 係留ベイの上部で、防火扉が激しく揺れた。


 鷹瀬の怒鳴り声が、金属越しに歪んで響く。


「開けろ!」


 結理が画面を見る。


「別班。東側から切り込んでくる」


 冬月の顔がまた冷える。


「休ませてくれないのね」


 対面審査体は、そこで初めて海側ではなく上部通路の方を見た。


 青い目の焦点が、遠い人間へ向く。


 --剪定優先群。

 --なお比較を阻害する。

 --地球文明内部ノイズとして記録。


「記録じゃ足りない」


 俺が立ち上がる。


「今は止めてくれ」


 対面審査体の視線が、もう一度こちらへ戻る。


 --要請か。


「そうだ」


 --命令ではないな。


「違う。

 頼んでる」


 少しだけ沈黙。


 それから、対面審査体は静かに言った。


 --受理する。


 その瞬間、海面下の青い点が一斉に動いた。


 今度は施設へ寄るんじゃない。

 外周を回るように散って、包囲艇の真下へ走る。


 係留ベイのスピーカーから、外の悲鳴と混乱が遅れて流れ込んできた。


 志奈星の船が急減速する。

 鷹瀬の偽装艇の電源系統が一瞬で落ちる。

 海面に、青い輪がいくつも広がる。


 冬月が短く言う。


「……やりすぎ」


「でも、殺してない」


 俺が言うと、冬月は苦い顔のまま頷いた。


「ええ。

 そこだけが救い」


 対面審査体の青い目が、そこで初めてほんの少しだけ人間らしく細まった。


 --四個体連結の要請に基づき、比較環境を保持した。

 --次の審査まで、暫定猶予を与える。


「次の審査って、いつだよ」


 俺が聞くと、対面審査体は少しだけ海の方を見た。


 --地球文明内部の選択速度と、逸失断片リリスの安定性に依る。

 --短ければ三日。

 --長ければ、一季。


 季節単位かよ、と思う。


 でもそれはつまり、数時間後に即座に剪定、みたいな最悪からは少し離れたってことだ。


 対面審査体は最後に、美羽、蓮、俺の右手を順番に見た。


 --名称を保持せよ。

 --強制を警戒せよ。

 --剪定優先群は、内側にも存在する。


 それだけ言うと、青い目の線が少しずつ薄れていく。

 借り物の体だった女の膝が、がくんと折れた。


「やば」


 反射的に前へ出る。

 だが、対面審査体はもうその体から抜けているらしい。

 女はそのまま床へ倒れ込んだが、微かに息はある。


 冬月がすぐに駆け寄る。


「生きてる。意識は飛んでるけど、戻せる」


 その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。


 青い点は、海の下でゆっくり遠ざかり始めていた。


 完全には消えない。

 でも、少なくとも今は離れていく。


 観測室の、いや、係留ベイ全体の空気がそこで初めて大きく変わった。


 助かった。

 とはまだ言えない。


 でも、今この瞬間だけは、ちゃんと踏みとどまれた。


『坊や』


 リリスが静かに囁く。


『やったわね』


「まだ何も終わってない」


『ええ。

 でも、こちらを"敵対文明じゃない"って言わせたのよ。

 それは大きい』


 その通りだった。


 外ではまだ鷹瀬が騒ぎ、利用派も志奈星も諦めていない。

 でも、向こう側の"目"に対しては、少なくとも最初の答えを返せた。


 名前で。

 選択で。

 恐怖じゃない繋がりで。


 それだけで、今は十分だった。



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