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第十一章 対面審査体 1・2

 第十一章 対面審査体


   1


 対面審査体が来る、と監査体が告げてから、実際に"それ"が姿を見せるまでの時間は、思ったより短かった。


 二十分もなかったと思う。


 海上観測施設の外では、包囲していた三隻のうち、海保偽装の一隻がゆっくりと進路を変え始めていた。

 逃げるんじゃない。

 こちらへ真っ直ぐ寄ってくるわけでもない。


 施設の南側に回り込み、波の角度と風向きを読んだみたいに、ちょうど観測塔の正面が見える位置へ艇首を向ける。

 その動きが妙に"綺麗"で、逆に気味が悪かった。


「……来る」


 冬月がモニターを見たまま言った。


 その声に反応して、結理もすぐ別画面を開く。

 外部カメラのズーム。

 白い船体。

 その前甲板に、一人だけ立っている人影。


 海保の制服。

 ライフジャケット。

 防水キャップ。


 でも、その人影だけが、波に合わせて揺れていなかった。


「生きてる人の立ち方じゃない」


 結理が低く言う。


 本当にそうだった。


 船がうねりで上下しているのに、その人影だけが海ではなく"別の基準"で立っている。

 重心が、どこにも乗っていないみたいだった。


 美羽が俺の袖をそっと握る。


「お兄ちゃん」


「見えてる」


 右手がじり、と熱を持つ。

 監査体そのものじゃない。

 でも、あの青い"目"の視線と同じ冷たさがある。


『器を使ってくるわね』


 リリスが囁く。


『人間の体。たぶんまだ壊しきってない。

 だから、丁寧に扱わないと』


「丁寧に扱う相手が増えすぎだろ」


 思わず小さく返すと、リリスは笑わなかった。


『そうね。

 でも、あれに入ってる"人"はまだいる』


 その一言で、喉の奥が少しだけ冷たくなる。


 モニターの中の人影が、そこで初めて顔を上げた。

 カメラ越しなのに、目が合った気がした。


 そして、施設の外部スピーカーが勝手に起動する。


 ノイズ。

 潮風の音。

 その下から、滑らかすぎる女の声が流れた。


 --対面審査体。

 --仮器を用いて到着。

 --四個体への直接比較を要求する。


「女……?」


 美羽が小さく言う。


 たしかに声は女だった。

 でも、人間の女の呼吸じゃない。

 感情の乗り方が薄すぎる。


 冬月は一拍だけ迷って、それから低く言った。


「受ける」


「即答かよ」


 俺が言うと、冬月は頷く。


「ここで拒否したら、"話せない文明"の証拠になる」


 それも分かる。

 嫌になるほど分かる。


 スピーカー越しに、迅の声が割り込んだ。


『外の包囲艇が動いた。

 鷹瀬のライン、接舷準備に入ってる。

 "対面審査体を理由に施設を保護"する名目だ』


「人の言葉を都合よく使うの、ほんと上手」


 結理が吐き捨てる。


『止める。

 だが全部は止まらない』


 迅の声は低い。


『冬月。対面審査体をデッキへ入れるなら、鷹瀬も同時に突っ込んでくる』


「分かってる」


 冬月は端末を叩きながら言う。


「だから、デッキじゃなく中へ引く。

 最下層の係留ベイ。

 外と中の間で受ける」


 観測室の空気が、一気に実戦のそれへ変わる。


「全員、下へ」


 冬月が言った。


「今から先は、"見られること"と"奪われること"が同時に来る」


   2


 係留ベイは、施設の腹の中にある広い空洞だった。


 海に面した鋼鉄のシャッター。

 濡れた床。

 ロープとクレーンと、古い工具箱。

 油と潮の匂いが混じって、観測室よりずっと生き物に近い空気がある。


 そこなら、人が立っても声が少しだけ響く。

 それがまだ救いだった。


 冬月は到着と同時に、施設側の人員を壁際へ下げた。

 射線を切る。

 銃口を隠す。

 それだけで、場の見え方が変わる。


「諸井、美羽さん、蓮くんは中央。

 結理は右。

 私は後ろで観測。

 "誰かが誰かを前に押し出してる形"に見せない」


 その配置意図が、今はよく分かった。


 監査体は、強制や支配の匂いに敏感だ。

 だったら最初の立ち位置から、それを消しておくしかない。


 蓮は少しだけ怯えた顔で周囲を見回していたが、美羽が横へ立つと、肩の震えが少しだけ収まった。


「大丈夫」


 美羽が小さく言う。


「私もこわいから、一緒」


 その言い方が、美羽らしかった。

 強がらない。

 でも引かない。


 俺は右手をゆっくり開く。

 赤い筋が、裂けた手袋の内側で静かに脈打つ。


『来るわよ』


 リリスが囁いた瞬間、外のシャッターが重い音を立てて少しだけ開いた。


 暗い海。

 波。

 そこへ、白いボートがゆっくり滑り込んでくる。


 前甲板に立っている人影は、近づくほど人間に見えた。

 三十代くらいの女性。

 濡れた髪が頬に張り付き、海保のライフジャケットの上からでも痩せているのが分かる。


 でも、目だけが違う。


 白目の奥に、細い青い線が浮いている。

 瞳孔が、こちらの光とは無関係にゆっくりと収縮していた。


 ボートが接岸する。


 女は飛び移るでもなく、ただ静かにデッキから降りた。

 濡れた靴底が金属床を鳴らす。

 その足音だけが、逆に生々しくて嫌だった。


「……対面審査体」


 冬月が低く呼ぶ。


 女の顔が、ゆっくりとこちらを向く。


 --仮器。

 --使用を継続。

 --比較対象を確認。


 声は、さっきスピーカーから流れていたのと同じだった。

 でも今は人間の喉と口を通っている分だけ、余計に気味が悪い。


 対面審査体の視線が、順番に俺、美羽、蓮、そして俺の右手へ落ちる。


「……リリス」


 俺が小さく呼ぶと、右手の奥で緊張が一段だけ高まった。


『いるわ』


 少しだけ声が硬い。


『嫌だけど、逃げない』


 対面審査体は、そこで言った。


 --逸失断片リリス。

 --想定より輪郭が強い。

 --宿主諸井静男。

 --剪定優先群との敵対を確認。

 --残余宿主相良蓮。

 --恐怖基盤からの離脱を確認。

 --安定因子諸井美羽。

 --所有不在を確認。


 その最後の言葉が、妙に胸へ残った。


 所有不在。


 こいつは、美羽が俺たちを"持っていない"ことまで見ている。


「だから何だ」


 思わず言うと、対面審査体はすぐに応答した。


 --比較を進める。

 --地球文明内部の剪定優先群が、四個体連結を破壊しようとする際、

 --四個体が何を保持するかを観測する。


 最悪だ。


 試験内容が、そのまま現実で来る。


 その瞬間、施設外周から別の警報が鳴った。


 冬月が苦い顔で言う。


「来た」


 結理が端末を見る。

 画面に赤い点がいくつも走る。


「北側接舷。

 鷹瀬のライン、一班。

 海保偽装と志奈星回収班が同時」


 迅の声が割り込む。


『止めきれなかった。

 外で法務を噛ませたが、鷹瀬が"外的異常介入による人命保護"を口実に強行突入した』


「最悪」


 結理が吐き捨てる。


「いつもより一段上だな」


 俺が言うと、結理は端末から目を離さないまま返す。


「笑えない」


 対面審査体の青い目が、一切揺れずに言う。


 --剪定優先群、接近。

 --比較条件、成立。


 冗談じゃない。


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