第十章 監査体の座標 12
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「迷ってるなら、こっちも聞く」
気づいたらそう言っていた。
冬月がちらっとこっちを見る。
止めようとはしなかった。
なら行くしかない。
「監査体よ」
青い海面を見据えて言う。
「お前らは、何をそんなに怖がってるんだ」
観測室の空気が、一瞬で張りつめる。
結理が小さく息を止める。
冬月も。
美羽だけが、少しだけ不思議そうに俺を見た。
でも、言った後で分かった。
これは挑発じゃない。
本当に知りたかったんだ。
個になること。
名前を持つこと。
戻らないこと。
それを、向こうはどうして"病気"みたいに嫌うのか。
スピーカーはすぐには答えなかった。
海面下の青い点が、ゆっくり脈打つ。
そのうちの一つが、ほんの少しだけ他より遅れる。
『……揺らいだ』
リリスが、驚いたみたいに囁く。
やがて、監査体の声が落ちてくる。
--個は、隔たりを生む。
--隔たりは、遅延を生む。
--遅延は、損失を生む。
--集合は損失を嫌う。
「それだけ?」
思わず口から出た。
「損したくないから、名前も選択も嫌うのか」
--隔たりは裏切りを生む。
--個は回収不能を生む。
--逸失断片は文明全体を揺らす。
そこで、リリスがスピーカー越しにはっきり笑った。
前みたいな妖艶な笑いじゃない。
もっと生身に近い、少し乾いた笑いだった。
「つまり、怖いのね」
観測室がしんと静まる。
「集合が完全じゃないって、知られるのが怖い。
私みたいな"戻らないもの"がいると、他の誰かも"戻らない"って気づいてしまうから」
監査体のノイズが、一瞬だけ乱れる。
--断片リリス。
--誤差を自己化している。
--危険。
「危険で結構」
リリスの声は静かだった。
「私はもう、あなたたちの"損失管理"より、坊やたちの方が大事だもの」
その一言で、右手が少しだけ強く熱を返す。
美羽がそこで、ぽつりと言った。
「損したって、全部なくなるわけじゃないよ」
観測室の全員がそっちを見る。
「たとえば、お兄ちゃんが怪我してもお兄ちゃんだし。
蓮くんが痛いままでも、蓮くんだし。
リリスさんが戻らなくても、リリスさんだし。
全部同じじゃなくなっても、終わりじゃない」
美羽はゆっくり言葉を選んでいた。
「それを嫌がって、怖がらせて、同じに戻そうとする方が、たぶんもっと壊れる」
その言葉が終わった瞬間、観測卓の波形が大きく揺れた。
今まで平坦だった青い棘の一部が、まるで心拍みたいに不規則に上下する。
結理が画面を睨む。
「ノイズじゃない。
向こう側の応答が乱れてる」
冬月も、別モニターへ指を走らせる。
「海面下の断片群、さらに二つ後退。
……いや、一つ、止まってる」
止まる。
それがどれだけ大きい変化なのか、今の俺でも分かる。
スピーカーから落ちてきた次の声は、さっきまでと少しだけ違った。
滑らかさが、わずかに欠けている。
--非効率。
--だが……
--損失と断定できない。
--比較を更新する。
「おい」
思わず声が出る。
「今、迷っただろ」
それに対して、すぐ返事は来ない。
でも沈黙そのものが、もう答えみたいなものだった。
リリスが骨の内側で、小さく息を呑む。
『初めて見た』
「何が」
『監査体が、"断定できない"って言ったの』
その一言で、観測室の空気がまた少しだけ変わる。
冬月が小さく笑った。
「揺らいだ」
結理も、ほんの少しだけ口元を緩める。
「やっと、ね」
でもそれで終わるほど、相手は甘くない。
スピーカーの向こうから、また新しい文字列が走る。
--比較審査を一時保留。
--剪定延期。
--対面審査体を送る。
観測室が凍る。
「対面審査体?」
俺が読み上げると、冬月が低く言う。
「監査体の"代理"が来る。
ここへ。
人の器か、別の器かは分からないけど」
迅の声が、ほとんど同時に割り込む。
『外の包囲艇、全部動いた。
鷹瀬も志奈星も"対面審査体"の文言を拾った。
今度は奪いに来るぞ』
最悪のタイミングだった。
監査体は揺らいだ。
剪定は延期された。
でも、その代わり"次"が決まった。
人間側は、それをまた兵器だ資産だ管理だと言って奪いに来る。
俺は美羽の手を、蓮の右腕を、そして自分の右手の中にいるリリスの輪郭を、いっぺんに感じた。
まだ繋がっている。
まだ切れていない。
「だったら、次も迎える」
低く言うと、右手が静かに脈を返した。
『そうね、坊や』
リリスの声は、疲れているのに少しだけ楽しそうだった。
『今度は"見られる側"じゃなく、"会う側"としてね』
海の下の青い点が、ゆっくり遠ざかり始める。
完全には消えない。
でも、さっきまでの"審査の圧"は少し薄れた。
観測室に残ったのは、まだほどけていない四つの結び目と、
その先に来る"対面審査体"という次の予告だけだった。
嵐は、終わっていない。
でも、少なくとも最初の問いには、こっちの答えを返せた。
それだけで、少しだけ息ができる。
冬月が端末を閉じる。
「休めるうちに休んで」
「そんな暇あるか」
俺が言うと、冬月は肩をすくめた。
「ない。
でも、ない中でも休まないと次で死ぬ」
その通りだった。
結理が、観測卓から離れながらこっちを見る。
「諸井」
「ん?」
「今の、ちょっと良かった」
「何が」
「監査体を迷わせたとこ」
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
「褒めてるのか?」
「少しだけ」
美羽はそこで、やっと大きく息を吐いた。
「じゃあ、次も頑張ろう」
あまりにも普通の言い方で、逆に救われる。
蓮も、小さく頷く。
「うん。つぎ、も、なまえで」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
右手が、静かに脈打つ。
外ではまだ、国家利用派と志奈星の船が海を塞いでいる。
でもこの観測室の中には、今たしかに"恐怖じゃない繋がり"が残っていた。
それが、次の戦いでどこまで通じるのかは分からない。
でも、ゼロじゃない。
そして今は、それだけで充分だった。




