第十章 監査体の座標 10・11
10
冬月は、観測室の中央に置かれていた椅子を全部どかした。
丸い卓の前、センサーケーブルの束も、余計な機材も片側へ寄せる。
床に残ったのは、黒い遮蔽マットが四枚だけだった。
「機械で縛らない」
冬月が低く言う。
「本人同士の選択でつながるっていうなら、計測器具が邪魔になる。
測るのは外側だけ」
結理がすぐに端末を再配置する。
中央の四角を囲むように、観測卓の画面が一斉に切り替わった。
心拍。
体表温度。
脳波ではなく、もっと粗い情動共鳴指数。
そして海面下の青い点と、上空ノイズ。
「位置は?」
冬月が聞く。
「諸井が東。蓮が西。
美羽さんは北。
リリスは諸井の右手を起点に内部リンク扱い」
結理が即座に答える。
「中心を空けるのね」
「うん。"誰か一人が中心"って形に見せたくないから」
その一言に、少しだけ救われる。
たしかにそうだ。
俺が全部を抱えて、他の三人を繋ぐんじゃ意味がない。
それじゃまた"支配"に見える。
冬月はそこで、俺たち四人を順番に見た。
「最初に確認する。
これは命令じゃない。
やめたくなったら、その時点で切っていい。
相手は"強制が混じるか"を見てる。
だから、嫌なら嫌でいい」
その言い方が、冬月らしかった。
格好いいことは言わない。
でも、一番大事な線だけは曖昧にしない。
「諸井静男」
「やる」
答えは早かった。
迷わなかった、とは言わない。
でも、ここで引いたら多分もう自分を嫌いになる。
「相良蓮」
蓮は毛布を膝に乗せたまま、少しだけ俯いた。
右腕の固定布の下で、黒い筋が微かに脈打っている。
「……こわい」
「うん」
冬月は頷く。
急かさない。
蓮は一度だけ俺を見る。
次に美羽を見る。
それから、ぽつりと言った。
「でも、やる」
その声は震えていた。
けれど、震えているからこそ本物だった。
「諸井美羽」
「やります」
美羽は即答した。
「理由は?」
冬月が聞くと、美羽は少しだけ考えてから言う。
「お兄ちゃんも蓮くんも、一人でやると無理そうだから」
観測室の空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
「リリス」
冬月は、そこで初めて俺の右手を真っ直ぐ見た。
「あなたは?」
一瞬、右手の奥が静かになる。
それから、誰にも触れられていないはずの観測室のスピーカーが、かすかに鳴った。
「仕方ないわね」
リリスの声だった。
甘くて、少しだけ皮肉っぽくて、でも今夜はその下に疲れがある。
「私を"断片"に戻したい連中へ見せるなら、付き合ってあげる。
ただし、坊やを壊したらその時はあなたたちごと噛むわよ」
「頼もしいね」
冬月が言うと、リリスは小さく笑った。
「頼もしい女は嫌い?」
「むしろ好き」
その返しに、観測室の空気がまた少しだけ柔らかくなる。
スピーカーから監査体の声が落ちる。
--四個体の自発同意を確認。
--比較審査を継続。
--虚偽判定なし。
「いちいち腹立つ言い方だな」
小さく呟くと、結理が端末から目を離さないまま返した。
「でも、いまの一文は大きい。
少なくとも"強制の疑い"は消えた」
冬月がマットを指した。
「位置について。
名前を呼ぶ。
命令じゃなく、自分で選ぶ言葉だけを使う。
それが始まり」
俺たちは、それぞれの位置へ座った。
東に俺。
西に蓮。
北に美羽。
そして、俺の右手の中にリリス。
中心は、空いたままだった。
11
最初の数秒は、何も起きなかった。
海面下の青い点が脈打ち、上空ノイズが揺れ、観測卓の数値が細かく上下する。
でも、魔法みたいな何かがすぐに起きるわけじゃない。
当たり前だ。
俺たちは儀式をしに来たんじゃない。
ただ、呼び合うために座っている。
「蓮」
最初に名前を呼んだのは、美羽だった。
優しい声だった。
でも、子ども扱いする声じゃない。
「うん」
蓮が小さく返す。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「静男」
「いる」
今度は蓮が言う。
声は掠れているけれど、ちゃんと俺を見ていた。
「美羽」
俺も呼ぶ。
「いるよ」
美羽が笑う。
そのやり取りだけで、右手の熱がゆっくりと整っていくのが分かる。
恐怖で尖っていた線が、少しずつ丸くなる感じだ。
『坊や』
リリスが囁く。
『右手、出して』
言われた通りに、右手をそっと中央へ向ける。
蓮も、少し遅れて異形の右腕を毛布の外へ出した。
前よりは人間に近い。
でも、まだ完全じゃない。
黒い筋が皮膚の下で揺れていて、指先だけが生き物みたいに細かく震える。
「触る?」
美羽が訊く。
蓮は少しだけ迷った。
それから、小さく頷く。
「……ちょっと」
「無理ならやめていい」
俺が言うと、蓮はまた頷く。
「うん。
でも、やる」
その言葉が終わるより先に、蓮の右腕が中央へ伸びる。
俺の右手も伸びる。
二つの手が、空中でそっと触れた。
熱が走る。
でも港の倉庫の時とは違う。
流れ込んでくるのは痛みだけじゃない。
蓮の中に残っている、薄い温かさ。
母親の声。
雨の日の玄関。
そして今、目の前にいる俺たちの存在を"失いたくない"という不器用な感情。
同時に、こっちからも何かが流れていく。
南門坂。
家の玄関。
美羽の「おかえり」。
結理の「帰ってきて」。
右手の中で、リリスが"私"と名乗った瞬間。
『……見せすぎよ、坊や』
リリスが苦笑みたいに囁く。
『でも、嫌いじゃない』
その時、美羽がゆっくりと中央へ左手を伸ばした。
誰の命令でもない。
自分で選んだ動きだった。
「私もいる」
そう言って、俺の左手へ触れる。
瞬間、熱が一段深く変わる。
さっきまで"俺と蓮の接触"だったものが、そこで初めて輪になる。
蓮の恐怖が、直接俺を刺すんじゃなく、途中で柔らかくほどける。
俺の中の怒りや焦りも、美羽の温度を通ると少しだけ形を失う。
「……あったかい」
蓮が、前よりはっきりした声で言った。
「うん」
美羽がそのまま返す。
「そうだね」
それだけの会話。
でも、観測卓の画面がそこで一気に変わった。
結理が思わず息を呑む。
「波形、変わった」
冬月も身を乗り出す。
「恐怖優位の鋭いスパイクが消えてる。
代わりに……何これ」
画面には、今まで見たことのない線が出ていた。
四本の波形が一つになるんじゃない。
それぞれ別のまま、途中で絡み合い、また離れる。
縄を編むみたいな、柔らかいループ。
誰か一人が他を従えている形じゃない。
中心を空けたまま、四つが互いに選んで寄っている。
「これが……」
結理が低く呟く。
「個体化の連結」
『悪くない名前ね』
リリスが言う。
「お前、今どこにいる感じなんだ」
小さく聞くと、リリスは少しだけ笑った。
『右手の中で、でもその外にも少し。
美羽の温度にも触れてるし、蓮の寒さにも触れてる。
でも、溶けてない。
ちゃんと"私"のまま』
その言葉に、少しだけ安心する。
監査体のスピーカーが、そこでまた鳴った。
--断片リリス。
--境界保持を確認。
--残余宿主相良蓮。
--恐怖優位低下を確認。
--安定因子諸井美羽。
--非所有的接続を確認。
--宿主諸井静男。
--支配命令不在を確認。
最後の一行が、妙に重かった。
「確認してどうする」
俺が低く言うと、スピーカーは少しだけ長く沈黙した。
--比較を継続する。
「まだかよ」
思わず漏れる。
でも、今すぐ剪定と言われないだけでも前進なんだろう。
冬月が低く言う。
「いや、今のは大きい。
少なくとも"即時敵対"から一段下がってる」
結理の端末には、海面下の青い点の一部が少しだけ離れる動きが出ていた。
「断片群、三つ後退。
全部じゃないけど、押してる」
『ええ』
リリスが囁く。
『見たことないものだから、迷ってるのよ』




