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第十章 監査体の座標 8・9


  8


 その時、外周警報がまた別の音で鳴った。


 今度は海じゃない。

 無線だった。


 観測室の壁面モニターの一つに、外部回線が割り込んでくる。

 ざらついた画面の向こうに映ったのは、鷹瀬清人の顔だった。


 背後には艦橋らしい暗い部屋。

 緊急灯。

 通信卓。

 海保の偽装艇にでも乗っているんだろう。


「接触派施設に告ぐ」


 その声は、第三棟で対峙した時よりさらに冷たかった。


「外部異常接触が確定した。

 当該施設は今この瞬間より国家緊急管理下に置かれる。

 対象個体ALICE-01、残余宿主No.03、逸失断片への接触を直ちに停止し、引き渡せ」


「断る」


 冬月が即答する。


 少しも迷わない。


「法的根拠は」


「緊急接触事案条項」


「その起案は迅の対抗条項と競合中でしょ。

 単独執行権はまだない」


 鷹瀬の顔色は変わらない。

 でも、その目だけが少しだけ硬い。


「外部応答が観測された以上、議論の余地はない」


「その"外部"と、今まさに話してる最中だけど?」


 結理が冷たく言う。


 鷹瀬の視線が彼女へ移る。


「君はまだその幻想を抱いているのか」


「幻想?」


「相手が対話可能だという希望だ。

 違う。

 あれは審査しているだけだ。

 こちらが管理不能と判断した瞬間、切る」


「じゃあ先に管理で潰すのが正義だと?」


 俺が口を挟むと、鷹瀬は迷わず頷いた。


「その通りだ」


 そこまで真っ直ぐだと、いっそ感心する。


「諸井静男。

 お前が今、ここで"愛"だの"名前"だのを見せていることも、私は全部記録している。

 だが国家に必要なのは、再現性だ。

 お前個人の奇跡ではない」


「だから蓮を壊したのか」


 低く言うと、鷹瀬の目が少しだけ細くなる。


「No.03は試行モデルだ。

 失敗した。

 なら次へ行く。それだけだ」


 その一言で、観測室の空気がまた冷えた。


 蓮がびくっと肩を震わせる。

 右腕の固定布の下で、黒い筋がわずかに脈打った。


「蓮」


 俺が呼ぶと、蓮はすぐにこっちを見る。

 それだけで、暴発しかけた波が少しだけ落ち着く。


 鷹瀬はその一部始終を見て、逆に確信を深めた顔になった。


「ほら見ろ。

 結局、お前の力も"対象の感情を握る"技術にすぎない」


「違う」


 今度は、蓮が言った。


 観測室の全員が息を止める。


 蓮はまだ震えている。

 でも、その目だけは鷹瀬を見ていた。


「しずお、つかんでない。

 おれが、いってる。

 おれが、きめてる」


 鷹瀬が、そこで初めて少しだけ言葉に詰まった。


 たったそれだけの違いだ。

 握られたんじゃない。

 自分で寄った。

 自分で決めた。


 でも、その差こそが利用派には一番都合が悪い。


 スピーカーから、監査体の声が落ちる。


 --記録。

 --外部文明内部に、剪定優先群を確認。

 --同一文明内で、処理原理が乖離している。


「ほら」


 結理が低く笑う。


「向こうにまで"お前ら内部で割れてる"って見抜かれてる」


 鷹瀬の顔から、少しだけ余裕が消えた。


「だからこそ国家管理へ集約する必要が――」


「その国家管理の中に、お前みたいなのがいる時点で終わってる」


 俺が言うと、鷹瀬は初めて声を少しだけ強めた。


「諸井!

 お前は何も分かっていない!

 今、向こうに見られているからこそ、人類は一つの意思で応答しなければならない!

 個人の感情や家族愛で判断していい段階じゃない!」


 その言葉に、一瞬だけ本気が混じる。

 たぶんそれは、嘘じゃない。


 でも。


「一つの意思って、お前の意思のことだろ」


 静かに返す。


「人類って言葉で、お前の都合を大きくしてるだけだ」


「違う!」


「じゃあ、美羽の代わりにお前が俺を止められるか?」


 観測室が、しんと静まる。


 鷹瀬は答えない。

 答えられない。


「蓮の名前を、お前は呼べるか?」


 沈黙。


「リリスを、断片じゃなく"私"として見れるか?」


 鷹瀬の目が、そこでほんの一瞬だけ歪んだ。


 その一瞬で十分だった。


 スピーカーから、監査体の声がまた落ちる。


 --剪定優先群は、名称を保持しない。

 --恐怖基盤を再生産する。

 --逸脱拡散の主因たりうる。


 冬月が、小さく息を呑む。


「今の、鷹瀬側に不利な判定」


 結理が低く言う。


「そういうことになる」


 監査体が、人類側の内部差を見始めている。

 それは危険でもある。

 でも同時に、"人類は一括ではない"と理解し始めた証拠でもあった。


 鷹瀬の顔が、ここで初めてはっきり変わった。

 余裕でも理屈でもない。

 焦りだ。


 9


「冬月施設長」


 鷹瀬の声は、今度は少しだけ落ち着きを取り戻していた。

 あいつもあいつで、切り替えが早い。


「そちらの観測ログをこちらへ送れ。

 このままでは"接触派の主観"だけが外へ残る」


「断る」


 冬月は即答した。


「主観かどうか、向こうがもう見てるでしょう」


「それでは国家として統一応答が――」


「まだ国家って言うの?」


 結理が遮る。


「今しがた監査体に"剪定優先群"ってラベル付けされたのに」


 鷹瀬の目が鋭くなる。


「結理。

 お前もいずれ分かる。

 個人の選択が積み重なれば、必ず制御不能の破局が来る」


 その言葉に、結理は少しだけ笑った。

 冷たくて、でもどこか哀れみも混じった笑い方だった。


「分かってるよ。

 だから今、あんたを止めてるんじゃない」


 それを聞いた瞬間、右手の熱が少しだけ上がる。



 結理もまた、変わってきている。

 合理だけじゃなく、ちゃんと誰かを守るために冷たさを使い始めている。



『そう』



 リリスが囁く。


『個体化は、もう私だけじゃないのよ』


 冬月が外部回線を一時ミュートした。


「今のうちに決める。

 監査体との対話を続ける。

 その間、利用派も志奈星も外で止める。

 異論ある?」


「ない」


 俺は即答する。


 結理も頷く。

 蓮は少し迷ってから、それでも小さく首を縦に振った。

 美羽も。


 冬月はそこで、中央卓の前へ歩く。

 そして、海面下の青い波紋を見ながら低く言った。


「監査側へ提案する」


 観測室のスピーカーが、すぐに小さく反応する。


 --聴取する。


「こちらは四個体を提示する。

 諸井静男。

 相良蓮。

 諸井美羽。

 リリス」


 名前を、順番に置いていく。


「この四つの結び目が、恐怖基盤ではなく相互選択で安定していることを、今ここで見せる」


 スピーカーは沈黙した。

 海面下の青い点だけが、ゆっくり脈打つ。


 冬月は続ける。


「代わりに問う。

 集合側の"剪定"は、未分化断片を増やすだけではないのか。

 恐怖基盤を選んだ結果、蓮のような不安定個体が生まれた。

 その再生産は、そちらの安定原理にとって本当に有効なのか」


 結理が小さく息を呑む。


「それ、真正面から喧嘩売ってる」


「審査ってそういうものよ」


 冬月は一歩も引かない。


 数秒の沈黙。


 その間、観測室の空気そのものが張っていく。

 海面下の青い点が、一つ、二つ、三つと少しだけ広がる。


 やがて、スピーカーから返ってきた声は、最初より少しだけ長かった。


 --未分化断片は、暫定容器。

 --恐怖基盤は、短期安定。

 --個体化維持は、長期不明。

 --比較審査を許可する。


「比較審査」


 俺が低く繰り返す。


 冬月は、今度は少しだけこっちを振り返った。


「要するに、"そっちのやり方を見せろ"ってこと」


 監査体の声が続く。


 --逸失断片リリス。

 --宿主諸井静男。

 --残余宿主相良蓮。

 --安定因子諸井美羽。

 --四個体連結を観測する。

 --虚偽、強制、支配が含まれる場合、剪定へ移行する。


「分かりやすい条件だな」


 思わず言うと、冬月が苦笑に近い息を漏らした。


「珍しくね」


 つまり、俺たちは今から"見せる"必要がある。


 恐怖でもなく、命令でもなく、ただつながるやり方を。


 しかも相手は、人間じゃない。

 "支配が混じったかどうか"を、たぶん俺たちよりずっと正確に見る。


 美羽が、そこで俺の袖を小さく引いた。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「やること、分かってる?」


 少しだけ考える。


 それから、頷く。


「たぶん」


 本当にたぶんだ。

 でも、何となく輪郭は見えている。


 蓮の痛みを抱えた時。

 美羽の声で右手が静かになった時。

 リリスが"私"って名乗った時。


 あれは全部、命令じゃなかった。

 選ばせて、呼び合って、つながった。


 だったら、やることはたぶん同じだ。


「名前で呼ぶ。

 自分で決める。

 痛いなら痛いって言わせる。

 それだけだ」


 美羽は少しだけ笑う。


「うん。

 それなら、たぶん私たちは得意」


 その通りかもしれない。


 外では、鷹瀬の包囲艇がまだ海面を塞いでいる。

 志奈星の残り火も消えていない。

 でも今、この観測室の中心で起きていることだけは、たぶんそっちの理屈では測れない。


 右手が静かに脈打つ。


『行きましょう、坊や』


 リリスの声は、思ったより落ち着いていた。


『今度は、"私たち"のやり方を見せる番よ』


 海の下の青い点が、また一つだけ明るくなった。


 審査は、続いている。


 でももう、ただ見られるだけじゃない。


 こっちも、向こうへ形を返し始めている。


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