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第十章 監査体の座標 4・5

 

   4


 海の下の青い光は、じわじわと施設の真下へ集まり始めていた。


 観測モニターの一つでは、潮流と電磁ノイズが、施設を中心に渦を巻いているのが見える。

 まるで海そのものが"ここ"を基準にし始めたみたいだった。


「座標が固定された」


 結理が低く言う。


「さっきまでは追尾だったのに、今は施設中心へロックしてる」


「来るのか」


 俺が聞くと、冬月さんは首を横に振る。


「"何か"が降りるとは限らない。

 でも、ここが観測点じゃなく"審査点"になったのは確か」


 その言い方が、ぞっとする。


 監査体。

 向こう側の判断役。

 リリスを回収し、個体化の拡散を止めるための存在。


 でも、それがまず"見る"だけなら。

 この施設そのものが、今まさに採点台へ上がっていることになる。


 イヤーピースへ、迅の低い声がまた入る。


『鷹瀬から正式要求が来た。"外部異常接触事案発生につき、ALICE-01および関連個体の国家管理下移送を要求する"だ』


「ふざけるな」


 思わず言うと、迅はすぐ返す。


『私もそう思う』


 少しだけ意外だった。


『だが、向こうはもう建前を揃えた。

 外にいる包囲艇はそのまま、"救助と保護"の名目で待機へ変わる。

 監査体が姿を見せた瞬間、それを口実に一気に踏み込むつもりだ』


 結理が舌打ちする。


「ほんと分かりやすい」


「じゃあ止めろよ」


 俺が言うと、迅は少しだけ間を置いた。


『止めている。

 だが、私一人の線では長く持たない。

 だから、"監査体がまず敵対しない"ことを外に示せ。

 それが今、唯一の手だ』


 その一言で、観測室の空気が変わる。


「示す?」


 冬月が聞き返す。


『そうだ。

 利用派は、外部異常が即脅威と証明されれば動きやすい。

 逆に、対話可能性が一瞬でも示されれば、少なくとも緊急条項の一部は遅らせられる』


「無茶を言う」


 冬月が低く言う。


「相手は監査体でしょう。

 到来前に"敵かどうか判断してない存在"へ、どうやって非敵対の証拠を出すの」


 数秒の沈黙。

 そのあと、迅の声が返る。


『諸井静男と、相良蓮だ』


 観測室の全員が一瞬止まった。


『二人とも、外部断片と接触してなお、破綻ではなく鎮静へ出力を使った。

 その波形を監査体へ見せる。

 "地球側が断片を即座に兵器化・殲滅していない"という事実を、まず示すんだ』


 理屈は分かる。

 嫌になるくらい分かる。


 でも、そんなのほとんど賭けだ。


「父さん」


 結理の声は低かった。


「それ、失敗したら」


『監査体は敵対判断を早めるかもしれない。利用派も同時に踏み込むだろう』


「最悪じゃない」


『そうだ。

 だが、何もしなければもっと悪い』


 その答えに、誰もすぐには反論できなかった。


 蓮が、小さく俺を見る。


「しずお」


「ん?」


「おれ、また……こわくなるかも」


「知ってる」


「みう、いてくれる?」


 美羽は即座に頷いた。


「いるよ」


 その一言で、蓮の右腕の脈動が少しだけ下がる。

 俺の右手も、それに引っ張られるみたいに静かになる。


 冬月が俺を見る。


「あなたは」


「やるしかないだろ」


 もう、それしかなかった。


 学校を壊した。


 志奈星本体の窓も閉じた。


 でも、今度はこっちが"どういう存在か"を見せる番だ。



 怖い。


 でも怖いだけじゃない。


 監査体に"病気"と見なされるか、"分岐"と見なされるか。

 その最初の答えは、たぶん俺たち自身が出すしかない。


『坊や』


 リリスが囁く。


『今度は、向こうを落ち着かせるつもりで行くの?』


「できるかは知らない」


 正直にそう返す。


「でも、少なくとも"全部壊すしかない"って答えにはしたくない」


 リリスは少しだけ黙った。

 それから、小さく笑う。


『ほんと、面倒な子』


 でもその声は、少しだけ誇らしそうでもあった。


   5


 準備は、驚くほど簡素だった。


 観測室の中央へ、簡易の遮蔽マットを敷く。

 その上に蓮。

 少し離れて俺。

 その中間に、美羽が座る。


 結理はその三角形の外に立ち、端末で波形を追う。

 冬月は観測卓で外の青い光と空の変化を見ている。

 迅は外周から回線越しに、利用派と志奈星の動きを抑え続ける。


 何も神秘的じゃない。

 祭壇も儀式もない。

 ただの観測室の床の上だ。


 それなのに、今までで一番"決定的な場所"に思えた。


「聞こえる?」


 美羽がまず俺に言う。


「聞こえる」


「蓮くんは」


 蓮も小さく頷く。


「……きこえる」


 右手がじわじわ熱を持つ。

 でも、港の倉庫の時みたいな暴発じゃない。

 もっと静かで、深く、何かを待つ熱だ。


 結理が画面を見たまま言う。


「海面下の青い群れ、施設真下で停止。

 その上で、上空ノイズも増えてる。

 ……上下から同時」


「監査体本体は空。

 断片は下から。

 そんな感じかしらね」


 冬月が呟く。


「ロマンがない」


 俺が言うと、冬月は肩をすくめた。


「現実なんてそんなもの」


 その時、施設全体が低く震えた。


 地震じゃない。

 もっと細くて、でも芯にくる振動。


 観測室の窓代わりのスクリーンに、海面の映像が映る。

 波の上に、青白い円がゆっくりと広がっていた。


 まるで、見えないものが海へ一滴落ちて、その波紋だけが見えているみたいだった。


 蓮が息を呑む。


「きた」


 同時に、右手の奥でリリスが静かに言った。


『来るわ。

 今度はちゃんと、"判断するもの"が』


 背筋が冷たくなる。


 でもその冷たさの中心に、美羽の手の温度がある。

 それだけで、まだ立っていられる。


「お兄ちゃん」


 美羽が小さく言う。


「うん」


「帰ってきて、じゃなくて」


 一度だけ息を吸って、それから続ける。


「ちゃんと帰ろう」


 その言葉が、胸の奥へ落ちる。


 一人じゃない。

 帰る場所でもあるし、帰る相手でもある。

 そういう言い方だ。


 右手の熱が、静かに整う。

 蓮の呼吸も少しだけ落ち着く。


 冬月が低く言う。


「反応、来る」


 観測モニターの中央に、今までの棘とは違う波形が立ち上がった。


 単純な応答じゃない。

 もっと滑らかで、もっと冷たい。

 "考えているもの"の形だった。


 そして、施設中のスピーカーが、誰にも触れられていないのに一斉に起動する。


 ノイズ。

 低いハウリング。

 その下から、声とも音ともつかないものが滲み出した。


「断片」

「個体化」

「逸脱」

「審査を開始する」


 誰の声でもない。

 でも、確かにこちらの言葉を使っている。


 観測室の空気が凍る。


 美羽が、俺の手を強く握った。

 蓮も反射みたいに毛布を掴む。

 俺は右手をゆっくり開く。


 ここから先は、本当に誰も教えてくれない。


 どう話せばいいのか。

 どう見せればいいのか。

 どうすれば、"病気"じゃなく"分岐"だと伝わるのか。


 それでも、もう始まってしまった。


 俺は海面の青い波紋を見ながら、低く言った。


「審査、ね」


 喉は少し乾いていた。

 でも、声は震えなかった。


「だったらこっちも、お前を見せてもらう」


 観測室の空気が、次の瞬間また大きく揺れた。


 監査体との最初の対話が、始まる。



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