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第九章 海上観測施設 5


   5


 冬月の指示で、それぞれに部屋が用意された。


 だが部屋に入って目を閉じると、逆に頭の中の青い棘が濃くなる。


 朝を迎えるまで、ほとんど誰も眠れないようだった。


 結局、俺は観測塔の下のデッキへ出ていた。


 海はすっかり朝の色になっている。

 灰色の波。

 低い雲。

 遠くで鳴るブイの音。


 手すりにもたれながら、右手を見る。


 裂けた手袋は新しいものに替えられていた。

 それでも、その下にある筋の脈動は隠しきれない。


『疲れた?』


 リリスが囁く。


「少し」


『嘘。だいぶでしょう?』


 その通りだった。


 身体だけじゃない。

 頭も、感情も、ずっと張りつめた状態続けている。

 学校をぶち壊し、蓮の暴走を止め、志奈星本体を落とし、向こうの"目"に見つかった。


 やってることのスケールに、気持ちが追いつくわけがなかった。


「お前は」


 小さく聞く。


「大丈夫なのか」


 リリスは少しだけ黙った。


『ふふふ、大丈夫じゃないわね』


 それから、静かに続ける。


『あの"目"に見られた時、少しだけ向こうに戻りたくなったもの。戻れば楽だって。"私"をやめて、また集合体の中に溶ければ痛くないって』


 胸の奥が、少しだけきしむ。


「でも、もう戻らないんだろ」


『戻らない』


 即答だった。


『だって、今さらでしょ。

 私はもう、坊やを知ってる。

 美羽も、結理も、蓮も知ってる。

 それを知ったまま集合に戻ったら、集合体もあなたたちもきっと壊れるわ』


 少しだけ笑いそうになった。


「大げさだな」


『本気よ』


 その声は、思っていたよりずっと真剣だった。


『個は、集合体にとって毒にもなるの。だから監査体が来る。私を消すためでもあるし、あなたたちが"広げる"前に止めるためでもある』


 そこで足音がした。


 振り返ると、結理がいた。


 髪はそのまま。

 いつもの制服じゃなく、施設のジャケットを羽織っている。

 それだけなのに、少しだけ年上に見える。


「やっぱりここ」


「お前も寝てないだろ」


「寝られる?」


 その返しにだけは同意できた。


 結理は手すりへ並ぶ。

 海を見る。

 少しの沈黙。


「父さんから連絡」


「何て」


「鷹瀬が、正式に"国家管理下での接触資産保護"を起案した」


「長いな」


「要するに、あなたを国の管理物件にしたいって話」


 分かりやすくて嫌だ。


「父さんは対抗起案を出した。接触派施設への一時避難と、民間・国家共同監視下での自発協力モデル」


「言い方変えただけに聞こえるのだが」


「ええ。でも、言い方が変わると現実も少し変わる」


 結理はそこで、海から目を離さないまま言う。


「父さん、本気で鷹瀬と割る気だと思う」


「嬉しそうには見えないな」


「嬉しくないから」


 短い声だった。


「でも、割ってくれないと困る。あの人が中途半端なまま政府側の中に残る方が、今はもっと困る」


 少しだけ、分かる気がした。


「それと」


 結理が今度はこっちを見る。


「冬月さんが言ってた。あなたの波形は、蓮だけじゃなく"私たち側"も少しずつ変えてるかもしれないって」


「は?」


「安心したり、決断の癖が変わったり、恐怖の抜け方が変になったり。まだ断定じゃないけど」


「なんだそれ。迷惑だな」


「そう」


 結理はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。


「だから、もし私が変な方へ寄ったら、あなたが止めて」


「お前までそれ言うのか」


「あなたも言ったでしょ。キレそうになったら止めろって」


「……ん」


 返す言葉がない。


 海風が二人の間を抜けていった。


 少しだけ間を置いてから、結理がぽつりと言う。


「でも、変わること全部が悪いわけじゃないなら……」


 そこで言葉が途切れる。


「……何だよ」


「別に」


 視線を逸らすのが、妙に分かりやすかった。


 その時、イヤーピースへ鋭い電子音が入った。


 冬月の声。


『全員、観測室へ。今すぐ』


 一瞬で空気が変わる。


「何が起こったんだ?」


 俺が走り出しながら聞くと、冬月の返事は短かった。


『向こうから、二回目の"返事"が来た。今度は波形じゃない。座標付きよ』


 背中が冷える。


 俺と結理は顔を見合わせ、そのまま一気に観測塔の階段を駆け上がった。


 次の幕は、もう始まっていた。

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