第九章 海上観測施設 3・4
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海上観測施設。
最新鋭の海洋プラントとか、軍の秘密基地みたいなものを少し想像していたが、その施設は、思っていたより古い建物だった。
実際に浮かんでいたのは、古色蒼然とした年代物の石油採掘リグを研究施設へと無理やり改造したと思われる、錆びた鉄の塊の構造物だった。
灰色の脚が海へ突き刺さり、その上に平たいデッキ。
さらにその上に、レドーム付きの白い観測塔。
海風に削られた手すり、塗装の剥げた壁、ところどころ継ぎ足された配線カバー。
でも、その古さが逆に"まだ誰の管理下にも完全には入っていない感じ"を出していた。
接舷すると、上からロープ梯子じゃなく簡易リフトが降りてきた。
実用一点張りだ。
先に蓮を乗せる。
蓮は海を見下ろして少しだけ固まったが、美羽が「大丈夫、一緒に」と言うとおとなしくリフトへ乗った。
俺たちがデッキへ上がると、そこで待っていたのは三人だけだった。
灰色の作業服を着た中年の男が二人。
そして、その少し前に立つ女が一人。
四十代半ばくらい。
髪は短く、風で乱れても気にしない。
白衣ではなく濃紺のジャケットにワークパンツ。
顔立ちは整っているが、いわゆる研究者っぽい優しげな空気ではなく、海の上の仕事に慣れた人間の目をしていた。
「冬月梓」
女は名乗った。
「接触派の、たぶん一番最後まで"話が通じる"側」
いきなりその自己紹介か、と思った。
結理が少しだけ目を細める。
「正直だね」
「ここへ来るまでに、だいたい正直じゃない大人に会いすぎたから」
冬月はそれだけ言って、俺を見る。
次に蓮。
最後に美羽。
そして、驚くほどあっさり言った。
「ようこそ。
コードじゃなく、名前で呼ぶ。
それがここの一つ目のルール」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わる。
蓮が、そこで微かに目を見開いた。
たぶんそのルールだけで、少しだけ呼吸しやすくなったんだと思う。
冬月は続ける。
「二つ目。鎮静剤も採血も拘束も、本人の同意なしにはやらない。
ただし死にかけた時だけは別」
「そこは別なんだな」
俺が言うと、冬月は頷く。
「海の上だからね。死なれると面倒」
あまりに飾らない言い方で、少しだけ笑いそうになった。
「三つ目」
冬月が観測塔の上を指す。
「ここは隠れ家じゃない。
観測施設。
休むために来たなら半分正解。
見るために来たなら、もっと正解」
そう言って、冬月は俺の右手を見た。
怖がるでもなく、珍しがるでもなく。
ただ、今後起きることの中心がそこにあると分かっている人間の目で。
「上へ。
先に見せたいものがある」
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観測塔の中は、外見よりずっと整っていた。
上へ上がるにつれて、錆びた外壁の印象が薄れていく。
代わりに、壁一面のモニター、海況観測図、電磁波スペクトラム、天頂カメラの映像が増えていく。
最上階のドーム室は半円形で、ぐるりと取り囲むモニターに海と空と数字が重なっていた。
「きれい……」
美羽が思わず声を漏らす。
たしかに綺麗だった。
夜明け前の空と海を、あらゆるセンサーが違う色で切り取っている。
青外線、熱源、電磁ノイズ、潮流、気圧差。
世界が"ただの景色じゃなくなる"感じがする。
冬月は中央卓の端末を叩き、昨夜からのログを呼び出した。
「志奈星の青い窓が落ちる直前、うちの観測網にも反応が入った」
画面に現れたのは、滑らかな波形ではなかった。
最初はほとんどノイズにしか見えない、鋭い棘のような乱れ。
「これが、第三棟から外へ出た最後の波」
冬月が言う。
「そして、こっちが十一・二秒後に返ってきたもの」
別の色が重なる。
最初の棘とは少し違う。
返事みたいに似ていて、でも地球上の送受信ログとは明らかに形が違う。
「……返ってきてる」
俺が呟くと、冬月は頷いた。
「ええ。向こうが"聞いた"だけじゃなく、"聞こえた"と返答えしてる」
ぞっとするほど嫌な言い方だった。
冬月はさらに別の画面を出す。
地球周辺の観測マップ。
低軌道。静止軌道。ラグランジュ点。
どこにも明確な"物体"は映っていない。
「今のところ、船も、衛星も、既知の飛翔体もない。でも、ノード崩壊後にここまで綺麗な構造波が返るなら、単なるノイズとは言えない」
結理が腕を組んだまま言う。
「監査体、ってやつ」
冬月は少しだけ視線を結理へ向けた。
「名前は何でもいい。問題は、向こうには"判断する何か"があること」
冬月は俺を見る。
「あなたが第三棟で感じた"見られた感覚"は、たぶん本物」
右手がじり、と熱を持つ。
『この人、嫌いじゃない』
リリスが囁く。
『変に慰めないもの』
「で、その"判断する何か"はいつ来る」
俺が訊くと、冬月は別の予測図を出した。
「最短四十八時間。ただし"来る"って言っても、宇宙船が海へ降りるとか、そういう分かりやすい話じゃない可能性が高い」
「じゃあ何だ」
「まずは代理体。
通信、認知、既存ホストへの上書き。
地球側の人間やシステムを使って触ってくる」
鷹瀬や白衣の男の顔が脳裏をよぎる。
あいつらはもう十分に人間離れしていたが、あれがさらに"上書き"される可能性があるわけだ。
冬月は続ける。
「逆に言えば、まだ完全に降りてきてはいない。
今なら、こちらから見返す準備もできる」
「見返す?」
美羽が訊く。
冬月は少しだけ口元を緩めた。
「向こうは集合。
でもこちらには、個がある。
あなたたちが見せたものは、ただの感情ノイズじゃなくて"個体化の波形"なの。
それが向こうにとって病気なのか、進化なのかはまだ分からない」
「進化、って」
「リリス」
冬月がその名を、当たり前みたいに口にした。
一瞬、呼吸が止まる。
「今、誰を」
「あなたの右手の中にいる亡命個体」
冬月は平然と答える。
「迅から最低限の共有は受けてる。
もちろん、本人の口から話す気がないならそれ以上は聞かない」
右手の奥で、リリスが小さく笑った。
『変な人ね』
「嫌か」
俺が小さく聞くと、リリスは少し間を置いてから言った。
『嫌いじゃない。"私"って呼ぶなら、少なくとも回収屋よりはずっとましよ』
冬月はその反応まで読んだみたいな顔で、小さく頷いた。
「なら話は早い。
今夜から、ここでは二つの観測をやる」
指を二本立てる。
「一つ。
向こう側からの"応答"の追跡。
二つ。
あなたたちの波形がどう人を変えるかの記録」
「また記録かよ」
思わず言うと、冬月は肩をすくめた。
「記録しないと、利用派が好き勝手な名前を付けるからね」
結理が小さく笑った。
「ちょっと好きかも」
「でしょうね」
冬月も笑わなかったが、会話の温度だけが少し柔らかくなった。
その時、蓮が部屋の隅のモニターを見たまま、ぽつりと呟いた。
「……みてる」
全員の視線が蓮へ向く。
蓮は窓のない海の映像ではなく、その横に出ていたスペクトラムの波形を見つめていた。
顔色が少しだけ悪い。
「どれだ」
俺が近づくと、蓮は震える指で一つの青い棘を示した。
「これ、おれのとこ、いたのと、おなじ」
「"いたの"って」
「なかに。おれのなかに、なりきれなかったやつ。
こわいとき、これ、なってた」
冬月の目が鋭く細くなる。
「未分化断片の残響パターンか」
結理もすぐ端末へ手を伸ばした。
「蓮の旧観察ログと重ねて」
画面に二つの波形が並ぶ。
そして、重なる。
ぴたりとではない。
でも、十分すぎるくらい似ている。
「つまり」
俺が言うと、冬月が低く答えた。
「向こうはもう"監査体"そのものじゃない。まずは未分化断片をこちらへ流し込み、代理体を増やしながら足場を作るつもりかもしれない」
「最悪だな」
「ええ。でも、最悪って分かっただけまだまし」
冬月は画面を閉じない。
「少なくとも、相手の最初の手は見えた」
海の上の観測施設。
夜明け前の空。
そしてモニターの中で、小さく脈打つ青い棘。
俺たちは、ようやく"本当に来るもの"の輪郭を見始めた。




