エピローグ
「――久しぶり。親父。母さん」
もう何度目かの春風が、静かに吹き抜ける。
墓を前に、『俺』は立っていた。
「最初にここへ来たのは、咲と一緒だったか……懐かしいな」
あの日の俺は、過去に怯え、ガラスの内側へ閉じこもっていた。
けれど今は違う。
もう目を逸らさない。
俺の視線は、まっすぐ墓石を捉えていた。
「あの日から、5年か。長いようで……短かったな」
咲とここへ来るまでは、ずっと逃げ続けていた。
思い出すことも、向き合うことも怖かった。
けれど、あれから毎年ここへ来ている。
それは執着なんかじゃない。
忘れないためだ。
笑っていたことも。
苦しかったことも。
壊れてしまったことも。
全部、俺の人生だから。
「俺は、二人の分も背負って生きていくよ。幸せなことばかりじゃないのは分かってる。――それでも進むって、決めたんだ」
あの頃は、幸せなんて分からなかった。
ただ必死で、生きることしかできなかった。
それでも確かに、ここまで歩いてきた道だった。
痛みも、後悔も、喪失も。
全部を抱えたまま、俺は前を向いていく。
「俺はちゃんと、自分の目で見て、この世界を生きていくよ」
オレンジ色のガーベラを、静かに供える。
春風が花弁を揺らした。
「――じゃあ。また来る」
吹き抜ける風に背を押されるように、俺は歩き出した。
二人の影を、背中に感じながら。
――
電車を降り、あの日から変わり続ける街を歩く。
何度も悩み、何度も躓いた道。
あの頃は、時間が止まったように思えていた。
けれど世界は、俺を置いて、それでも動き続けていた。
イヤホンを耳につける。
河川敷では、子供たちが白球を追いかけていた。
その姿に、思わず頬が緩む。
流れる曲は、BUMP OF CHICKEN『Gravity』。
月日がどれだけ流れても、忘れようとしたことは一度もない。
全部、俺の中に刻まれている。
「大変申し訳ございません。ええ、はい……はい」
横を通り過ぎた若いスーツ姿の男が、頭を下げながら電話をしていた。
将来に悩み、家族に縛られていた青年も、今を生きていた。
「頑張ってください。高橋さん……」
通り過ぎざま、小さく呟く。
「……え?」
一瞬、男が振り返った気がした。
けれど、それ以上こちらを見ることはなかった。
ただ前を向き、再び歩き出していく。
――
いつもの道を抜ける。
たどり着くのは、変わらない場所。
イヤホンを外し、俺は目の前の景色を静かに見上げた。
「あれから……五年か」
呟いた声をかき消すように、子供の元気な声が響く。
「パパー! あとでキャッチボールしようよ!」
「はいはい」
「こら、走らないの」
勢いよく走ってきた子供が、俺の足元へぶつかった。
「あいてっ」
「大丈夫か?」
「すみません……あっ」
母親が慌てて頭を下げる。
だが父親は、俺の顔を見ると、一瞬驚いたように目を見開き――やがて笑った。
「お元気でなによりです。――空韻さん」
「ええ。土屋さんも」
すれ違いざま、俺たちは小さく笑い合った。
家族という呪いに縛られていた一人の男も、今は自分の足で未来を歩いている。
その背中を見送り、俺は扉へ手をかけた。
看板には、『閾カフェ』の文字。
かつて一階にあった小さな喫茶店は、五年の月日を経て姿を変えた。
老店主から受け継いだこの場所は、今では相談所の役割も兼ねている。
人が立ち止まり、誰かと向き合うための場所。
あの日、叔父さんが俺に残したように。
カラン――。
鈴の音が鳴る。
懐かしくて、暖かな音だった。
「いらっしゃいませ――あっ」
出迎えの声が、ふっと柔らかく途切れる。
「――お帰り。旅人くん」
エプロン姿の咲が、カウンター越しに微笑んだ。
静かにコーヒーを淹れていたその手が止まる。
指先で光った指輪が、一瞬だけ陽の光を反射した。
「ただいま。咲」
「いつもの?」
「ああ。頼む」
「うん」
何気ないやり取り。
けれど、その当たり前が、どこかくすぐったくて暖かい。
俺は軽く手を挙げ、そのまま店の奥へ進んだ。
平日の昼下がり。
客は多くない。
それでも店内には、それぞれの時間が流れていた。
若い学生たちは、楽しそうに笑い合い。
年配の夫婦は、静かにコーヒーを飲みながら窓の外を眺めている。
スーツ姿の男は、煙草を片手にノートパソコンへ向かっていた。
ふと、その男と目が合う。
男は吸っていた煙草を口元から外し、小さく会釈した。
俺も静かに返す。
かつて全てを背負い込み、押し潰されそうだった男も、今を生きていた。
それぞれが、それぞれの世界を抱えながら。
階段を上がる。
五年前とは少し姿を変えた相談所。
それが今の『閾相談所』だった。
俺はいつものデスクへ腰を下ろし、パソコンを開く。
そのままテレビをつけ、静かに作業を始めた。
『続いては、プロ野球速報です』
流れてきた声に、自然と手が止まる。
『本日の試合では、三番・石塚彰吾、四番・有馬海人の二者連続ホームランが飛び出しました――』
画面の中で、懐かしい二人が笑っていた。
別チームのベンチには、谷口の姿も映っている。
「大きくなったな……あいつらも」
社会人野球を経て、三人ともプロへ進んだ。
眩しいスポットライトの中にいる姿を見ながら、俺はふと、あの日のバッティングセンターを思い出す。
騒がしくて。
馬鹿みたいに笑って。
どうしようもなく、青春だった。
「ありがとう」
いつの間にか横へ来ていた咲が、コーヒーを置く。
咲もまた、テレビの中の彼らを見つめて微笑んでいた。
「みんな、ちゃんと前に進んでるね」
「ああ……そうだな」
咲は小さく頷き、再び階下へ降りていく。
店内の賑やかな音が、遠くに聞こえた。
俺はテレビを消し、部屋の端にある仏壇へ向かう。
チーン――。
澄んだ音が、部屋の中へ静かに広がった。
その音を聞くたび、不思議と心が落ち着く。
「叔父さん……俺は今、ちゃんと自分の目で、自分の生き方で、ここにいるよ」
返事はない。
けれど、それでよかった。
「今なら胸を張って言える。ありがとう。叔父さん。あの頃の俺を、ずっと見守ってくれて」
言葉が少し詰まる。
けれど、もう俯かない。
「これからも俺は、この世界を生きていくよ」
そう呟きながら、俺は窓際へ目を向けた。
大きなガラス越しに、街の景色が広がっている。
あの頃の俺は、ガラスの向こう側にしか世界を見られなかった。
けれど今は違う。
ガラスは、世界を拒む壁じゃない。
人と人を繋ぎ、景色を映すためのものだった。
そして今、その景色の中には、ちゃんと俺もいる。
穏やかな空が、ゆっくりと流れていた。
――コンコン。
軽く壁を叩く音がする。
「旅人くん」
振り返ると、三枝さんが微笑んでいた。
仏壇の前に立つ俺を見て、どこか安心したように目を細める。
「三枝さん」
「旅人くん。依頼よ」
変わらない声。
変わらない距離感。
けれどその全部が、今では心地よかった。
三枝さんに促されるまま、階段の方を見る。
そこには、一人の若い依頼者が立っていた。
どこか不安そうで。
どこか助けを求めるような目。
かつての俺みたいな顔だった。
「――どうぞ。こちらへ」
椅子を引き、座るよう促す。
依頼者は緊張した様子で、小さく頭を下げた。
俺も向かいへ腰を下ろす。
誰もが、自分だけのガラスの世界を抱えて生きている。
だからこそ、向き合わなければならない。
「それでは――」
五年前と変わらない言葉を、俺は静かに口にした。
「――あなたの世界を、教えてください」
透き通ったガラスに映る世界は、もう誰かを拒むものではなかった。
俺は今日も、自分の目で世界を見ている。
これにて『透き通ったガラス越しに』終了となります。
数少ない読者さん達には感謝しかありません。
この作品を通して、何を感じていただけたでしょうか。少しでもあなたが方のガラスに触れていればいいなと思っています。
仕事が落ち着き次第、また執筆したいと思ってます。
それではまたお会いしましょう。




