第9話
このクラスで一番仲のよい吉中武は、今日は朝からひどく憂えていた。彼は教室に入ってきたとたんに大げさなため息をついてカバンを置き、教室を見回してその首をわざとらしく振って見せた。
「どうしたんだよ吉中。朝ご飯たべそこなったのか?」
晴嵐が声をかけると、彼は芝居がかった顔で食ってかかってきた。
「お前はこの状況に気がつかないのか?」
「なにが?」
「今日は何の日か知っているか?」
「知らない。お前の誕生日はまだ先だろ」
「ちがう。衣替えの日だ!」
「は?」
晴嵐は思わず吉中がおかしくなってしまったのではないかと疑った。衣替えの日ってなんだよ。
十月一日から、制服の衣替えの準備期間が始まる。その期間は夏服の上にカーディガンを着てもいいし、冬服でもいいことになっている。つまり、どの制服を着てもよいのだ。そして十五日からいっせいに冬服に切り替わる。
そんなことは晴嵐だって知っているが、それと吉中の憂鬱となんの関係があるのだろう。
「オレだけじゃないぞ」
憤然として吉中は言った。
「全男子生徒に関係があるのだ。もちろんお前にもな!」
なんだろう。晴嵐が考えていると、その横で吉中は頼まれてもいないのに解説をはじめた。
「つまり、今まで夏服で薄着だった女子が厚ぼったい冬服になってしまうってことだろ?もうあのつるつるした腕とか半そでの脇からちらっと見えるブラとかが拝めなくなってしまうんだぞ?」
なんだ、ばかばかしい。確かにそれはちょっと寂しいが、そんなことで朝からため息をつくほどのことでもないだろう。うっとおしい。
「なんでお前はそんなに淡白なんだ!」
「半そでの脇からちらっと見えるブラに興味なんかないってことだよ」
そう言うと、なおも食い下がる吉中を振り切って自分の席についた。
その前の席では、皆実夜雨が相変わらず机の上に本を広げていた。こちらを向いている彼女の白いうなじを横目に、晴嵐は自分も吉中のことは言えないかもしれないと思っていた。
彼女と寝たあの雨の日から、二週間以上たっている。
また来てもいいかと尋ねておきながら、あれから彼女は一度も晴嵐の部屋を訪ねてきてはいないのだ。もちろん学校でそんな話をすることもない。それどころか、まるで何事もなかったみたいだった。
ま、いいけどね。
晴嵐はちょっと大げさにため息をついてみた。
彼女が今読んでいる本が、この前貸した本だということには気がついている。
二週間前に貸した本をまだ読んでいるなんて、皆実さんはわりと熟読するタイプなのだな。
しかし、実は晴嵐も本を読むのは遅い方だ。服を着替える時と同じように、読みながらぼんやり考えたり、前に読んだところが気になってまた戻ったりする。だからいつまでたっても先に読み進まないのだ。案外、彼女もそのクチなのかもしれない。
六限目の授業が終わるころ、もったりと重たげだった空から雨が降り出してきた。朝から降りそうで降らない、なんともはっきりしない天気だったのだが、ここにきてようやくしびれを切らしたらしい。
開け放した窓から入ってくる雨の匂いをかぎながら、晴嵐は秋の気配を感じ取っていた。
真夏のあいだは、わしゃわしゃ鳴くセミの声なんて暑苦しくてうるさいと思っていたのに、いざ鳴き声が聞こえなくなると少し寂しい。
だけど、冷えはじめた空気や木の葉の色づきに秋を感じると、夏とは違う昂揚感に少しうれしくなる。
そういえば、あの日以来の雨だな。
ぼんやり外を眺めながら晴嵐はふと思った。
あれからずっと秋晴れが続いていて、水不足がどうとかテレビで言っていたのを覚えている。
秋の長雨っていうのもいいな。なぜなら部活が休みになるから。
思ったとおり、ホームルームが始まる前に吉中がひとっ走りしてきて、
「今日は自主トレだってさ」
晴嵐のところまでやってきてニヤニヤした顔でそう言った。もちろん晴嵐も吉中も、まじめに自主トレなんかするはずもない。他の奴らも誘って、帰りにゲーセンでも行こうかと話をつけているうちに、先生が入ってきてホームルームが始まってしまった。
「えー、今からプリントをまわすが、来週から三者面談がはじまる。金曜日までにご両親のどちらでも構わないので、学校に来られる日を用紙に書いて提出するように」
マジか!
夜雨が振り返って晴嵐にプリントを渡す時、うかがうような表情を見せた。彼女は晴嵐が叔母の家に厄介になっていると学校に偽って一人暮らしをしていることを知っている。
うーん、仕事でどうしても来られないことにするか、それとも……。ママの出番か?いや、それはまずいだろう。
『三者面談のお知らせ』と書かれたプリントを眺めているうちにホームルームが終わってしまい、みんなぞろぞろと帰り始めた。
「相楽君」
周囲に誰もいなくなったタイミングで、くるりと夜雨が振り向いた。この席で彼女のおさげではなく、顔を正面から見たのは初めてではないだろうか。
「今日、部活ないんだよね」
「自主トレだってさ。そんなの残ってやるやつなんて、うちの部長くらいだよ」
そう言って、つい三日前の対抗試合で三年生が引退したばかりなのを思い出した。今は隣のクラスの金子雄一が新部長だ。
「あのね、借りていた本を返そうと思って」
「ああ。じゃあ、持って帰るよ」
手を差し出すと、夜雨は首を振った。
「もう一冊は家にあるの。また別のを借りたいし、今日、相楽君の家に行ってもいい?」
「今日?」
「ダメ?」
これから吉中たちと遊びに行こうかと思っていたのだが、もうそんな気分ではなくなっていた。
「いいよ。すぐに来るの?」
「いっかい家に戻ってから行く。」
皆実夜雨の家は、少し道を外れるが、学校から晴嵐の家へ向かう途中にあった。
「わかった。待ってるよ」
「ありがとう。」
吉中にゲーセンに行けなくなったと伝えたら、ひとしきり付き合いが悪いとなじられてしまった。
「ところで相楽……」
急に声を低くして吉中はにたりと笑った。これはよからぬことを想像しているときの彼のクセである。こいつ、また変なこと考えてるな。
「さっき皆実さんとなに話していたんだよ。あいつが笑うなんて珍しいじゃねえの」
「別にたいしたことじゃないよ。それに皆実さんだって笑うことあるだろ」
「なーんか怪しい」
疑うような目で吉中は晴嵐をみた。
こいつにかかったら、片思い中の隣のクラスの超美少女(名前なんだっけ?)以外、みんな怪しく見えるのだろう。なんでこうもベタなことしか考えつかないんだろう。
しかし、実際は吉中が怪しんでいるとおりなので、晴嵐もあまり吉中をバカにもできないと思った。
「皆実さんが面白そうな本を読んでいたからきいていただけだよ」
「お前、本なんか読むの?」
「たまにはね。一応学べる中学生なんだから。お前もちょっとは教養を身につけたら?」
「オレにはそんなもん必要ないんだよ」
バカにつける薬は無しか。
吉中よ、ある意味お前がうらやましいよ。お前になりたいとは絶対に思わないけど。
そんなふうにだらだらしていたせいか、晴嵐がマンションに着くと、入り口のところで先に夜雨が待っていた。
「ごめん、皆実さん。だいぶ待った?」
「大丈夫、さっき来たところ」
制服しか見たことがないせいか(もちろん体操着なんかは別として)、Tシャツワンピースにスニーカー姿の彼女は、なんだかいつもと違って見える。それに、おさげではないし、ダテ眼鏡もしていない。素の皆実夜雨だ。
「お茶入れるけどなにがいい?」
晴嵐は着替えを済ませると(今日は頑張って十分で済ませたのだ)、隣の部屋で本を探している夜雨に声をかけた。
「なにがあるの?」
「コーヒー、紅茶、ジャスミン茶、緑茶……」
「紅茶」
そう答えて、夜雨はリビングに入ってきた。




