第8話
「皆実さん、本棚こっち」
流しで皿を水につけたあと、晴嵐は廊下へ出て彼女を隣の部屋へ案内した。
本棚しか置かれていない部屋だった。天井まで届く棚に、本が隙間なく詰め込まれている。晴嵐の趣味のためだけの部屋だ。
「すごい――」
天井までびっしり棚を埋め尽くす本をぐるりと見回して、夜雨は感嘆の声をもらした。
「自前図書館ってやつ」
「本当にジャンルを問わないんだ」
「好きなの持っていっていいよ。オレ、あっちの部屋にいるから」
晴嵐がそう言った時、
「相楽君、しようか?」
くるりと振り返って、夜雨が言った。
「なにを?」
脈絡のないその言葉に、晴嵐は一瞬きょとんとして彼女を見返した。
「――セックス」
彼女は、まるで「本を貸して」とでも言うような調子でそう言った。
その言葉に、晴嵐は思わず自分の耳を疑った。
「ずいぶんと簡単に言うね」
「初めてじゃないでしょ」
「よくわかるね。そうだけど、そうじゃなくて、好きでもない男としちゃうのかってことだよ」
「あんまり話したことないけど、相楽君のこと好きだよ?」
「人として好きって話じゃなくてさ。オレが言ってるのは、恋愛として好きかってこと」
「セックスして好きになるってこともあるでしょう?」
「オレとしてはありだと思うけど、それって十四歳の女の子が言うセリフじゃないよね。本当に皆実さん?」
「私じゃなかったら誰なのよ。じゃあ、十四歳の女の子ってどういう風なの?何組の誰が好きとか、誰先輩が格好いいとか言っているものなの?」
晴嵐は夜雨の顔を見たまましばらく考え込んだ。
晴嵐の目の前に凛と立っている彼女は、仮面代わりにつけていた黒ぶちのメガネをはずし、おさげにしていた髪をほどいている。しっとりとしたストレートの黒髪が肩から胸元にこぼれ落ちていた。こうしていると、彼女が中学二年生だと思う者はいないだろう。
「そういうこと言っている皆実さんって想像つかないな」
晴嵐が言うと、彼女はそうでしょうともと言いたげににこりとした。
まったく、学校では見せないんだよな、この顔。
「だけどさ、やっぱりまずい」
「どうして?」
不思議そうに夜雨は首をかしげた。一見すると計算づくに見えるのに、その仕草には妙な無防備さがあった。
「だってさ、皆実さんの席、オレのすぐ前なんだよ。授業中にそういう気分になったらオレが困る」
「授業中にそういう気になるの?」
彼女は心底驚いているようだった。
「いっかいするとやっぱ考えちゃうでしょ。皆実さんがおさげで来るのをやめてくれるなら別だけど」
「なによそれ。相楽君が授業中にやりたくなるのと、私のおさげと何の関係が……」
そう言って夜雨は口をつぐんだ。晴嵐が何のことを言っているのか理解したらしい。
「そうなんだ。おさげって……」
「いや、そんなに深刻にならなくてもいいよ。うなじに弱いのはオレだけかもしれないし」
「うなじに弱い……」
「だから、そんなオウム返しに言うなよ。皆実さんがオレの目の前の席だから、目に入るってだけなんだから」
あたふたとしている晴嵐を夜雨は真っ直ぐと見つめている。同じくらいの身長で向かい合っているから、目線はほぼ変わらない。その目は媚びをうっている目ではなかった。
ただ欲望だけで言っているわけではないのかもしれない。
「……皆実さん、オレに興味があるの?」
「そうだと思う。よく分からないけど、そうしたいって思ったの」
――駄目だ、と思った。
結局、晴嵐は彼女を拒めなかった。
だけど、そんなことはもうどうでもよかった。
夜雨と並んで仰向けに横になったまま、晴嵐はふと彼女は明日からおさげをやめてくるだろうかと思った。
晴嵐たちが通う中学には、髪型に関する厳しい校則はない。「授業の邪魔にならないように、長い髪はむすぶこと」と記されているだけである。髪の長い生徒は、おさげや一つ結びにしなくてはならない、なんてどこにも書かれていない。
「皆実さん」
晴嵐は隣の夜雨に声をかけてみた。規則的な息遣いが聞こえてくるだけで返事はない。
寝ているのかな。
晴嵐は頭をずらして夜雨の方に向いた。とたんに彼女の大きな瞳と目が合う。
「寝てるかと思った」
「なに?」
柔らかい綿生地のタオルケットにくるまったまま、夜雨はふふっと笑った。
「月曜日もまたおさげにダテ眼鏡で来るの?」
「ダテ眼鏡だってどうして知っているの?」
不思議そうに夜雨は言った。
「そんなの見れば分かる」
しかし、クラスでそれに気がついている者はたぶん晴嵐だけだろう。ダテかどうかなんて、他の者たちにとっては多分どうでもいいことなのだ。
「何でも分かるんだね。相楽君は」
「そんなことない。むしろ分からないことの方が多いよ。分からないから、色々知りたいと思うんだろ?万有引力っていうのはさ、きっと人間の心理に置き換えると相互理解ってことだと思う」
「お互いにお互いを知るってこと?それを言うなら、お互いに惹かれあうってことじゃない?つまり恋愛が人における万有引力なんじゃないの?」
「恋愛感情がなくても、誰かに惹かれるってことあると思うけど」
「でも、恋愛感情がいちばん強い引力なんじゃない?」
「そうだね。で、皆実さん。オレの問いにはまだ答えてないよ?」
夜雨はくすくす笑った。
「月曜日になればわかるわよ。それまでのお楽しみ。」
まったく、楽しくない。
晴嵐がむくれていると、夜雨が顔をあげて晴嵐の顔を覗き込んだ。
「相楽君の名前って、誰がつけてくれたの?」
「ばあちゃん」
「晴れの日の嵐――素敵なおばあさんだね」
「春一番ってことじゃないの?オレ、四月生まれだから」
「知らないの?晴嵐って、冷涼とした山気のことだよ」
「さんき?」
「山の空気。晴れた日の朝とか、山の空気ってぴりっとした冷気があるでしょう?あとは、山風って意味もあるけど」
「そうなんだ」
自分の名前の意味など考えたことはなかった。父と母は自分たちの子供に名前をつけることをしなかった、という事実を祖母から知らされただけだった。
冴え渡る空気のように、凛とした男になって欲しいという祖母の願いがあったのかも知れない。もしかしたら、ただ単に初恋の人の名前だったりするのかもしれない。
今となってはもう、それすら聞くことはできないのだ。
「そういう皆実さんの名前も夜の雨なんて小洒落ているじゃないか」
「雨の降っている夜に生まれたんでしょ」
たいして興味なさそうに夜雨は言った。
「でも、皆実さんにはぴったりだと思うよ。なんか憂えがあってさ。響きもいいし」
「……ありがとう」
だが、そう答えた彼女の表情はどことなく硬かった。
すっかり乾いた制服に皆実が着替えるころ、降り続いていた雨はやんでいた。所々切れた雲の間から夕闇の空がのぞいている。
部屋の中はもうとうに薄暗かったが、照明をつけてしまうとなんだか現実に引き戻されてしまうようで、晴嵐は薄暗いまま夜雨を玄関まで見送った。
「また来てもいい?」
「セックスをしに?それとも本を借りに?」
「相楽君のご飯を食べに」
嘘だと思った。だけど、晴嵐は何も言わなかった。
彼女はほどいていた髪をきちんと結んでおさげにし、あのダテ眼鏡をちゃんとしている。学校で見るいつもの皆実夜雨だった。
「ここは自由の空間ね」
ふと彼女が呟いた。
「自由の空間?」
「そう。自分の生きたいようにやりたいようにできる場所」
「そんなことはない」
晴嵐は振り返って自分の部屋を見回した。
この場所を手に入れるまでにどれだけのことがあったのか彼女は知らない。親戚の家で晴嵐が閉じ込められていたあの檻のことも、そこで晴嵐がどんな仕打ちをうけ、どうやって逃げ出してきたのかも。
「与えられたものを使って生きているだけだ。自分の手で得ることができたものは何もない。オレはまだ十四歳の子供だから、自分ひとりじゃなにもできない。この籠の中で身を守りながら生きていくしかできない」
「それでも、例えここがカゴの中であっても、相楽君はここから自分の意志で自由に行き来できるじゃない。自分の意志で外に出てここに戻ってきている。わたしは―――」
夜雨はふと視線をさげた。長いまつげが何度も瞬きをする。
「わたしは囲われた鳥ね。籠の外に出ることもできない、外の世界があることすら知らなかった鳥。――囲い慣らされた鳥」
小さく呟いた彼女の瞳に、小さな光が冷たく揺らめいたような気がした。
囲い慣らされた鳥。
それがどういう意味なのか晴嵐には分からなかった。だがその言葉は、夜雨が帰ったあとも彼女の気配と一緒にいつまでも晴嵐の部屋に残り続けていた。




