第10話
「なんで中学生の男の子の一人暮らしに、お茶がそんなにそろっているの?」
「ばあちゃんが好きだったんだ。こういうの色々くれる人もいるし」
「彼女?」
「まさか。そんなのいないよ」
「そうなの?」
夜雨が不思議そうに首をかしげた。その拍子に肩にかかっていた髪がさらりと胸元にこぼれ落ちてきて、いい匂いがした。
「ちょっと意外」
「なんで?童貞じゃないから?」
「違うわよ」
夜雨はおかしそうに笑った。
「だって、女の子に告白とかよくされるでしょう?だから」
「そんなのは関係ないよ。告白されたって、好きじゃなかったら付き合ったりしないし」
「好きでもない子と寝れるのに?」
「それとこれは別。……皆実さん、今日はやけに絡むね」
「別に。ちょっと疑問に思ったから」
夜雨は差し出された紅茶に口をつけて、熱そうに眉をしかめた。脇にはすでに新しく借りていくつもりの本が二冊置かれている。すぐに選んできたということは、前にきた時に目をつけていたのだろう。
夜雨の向かいに腰を下ろして、晴嵐も熱いコーヒーをすすった。
締め切った部屋の中には、コーヒーと紅茶の匂いに混じって、皆実の柔らかな匂いがわずかに漂っていた。晴嵐の知っている女性は、高そうな香水をつけている人ばかりだったので、女の子というものが、こんな匂いをしていることに、少し驚いていた。
そういえばオレ、女は知っているけど、女の子は知らないんだよな。
あらためてそう思った。
夜雨は細くて長い指で覆うようにティーカップを持って紅茶をゆっくり飲んでいる。その様子を見ているうちに、晴嵐はふと、彼女に触れてみたいと思った。
「皆実さん」
「なに?」
顔をあげずに夜雨が答えた。
「さわってもいい?」
「……」
さして驚いた様子もなく、彼女は顔をあげて晴嵐を見た。
「どこを?」
「……どこって聞かれると困るけど。そう返されたの、初めてだよ」
夜雨はカップを置いて立ち上がると、晴嵐のすぐ前まできてワンピースのボタンをはずし出した。
「――皆実さん、なにしてるの?」
「脱いでるの」
あたりまえのように彼女は答えた。
「オレ、寝ようって言ったわけじゃないよ?」
「じゃあ、どういう意味?」
なおもボタンを外す手を止めないので、晴嵐はその両手をつかんで言った。
「いいよ、もう。ゴメン、オレが悪かった」
彼女は確かに男を知っている。セックスだって知っている。
だけど、“男”を知っているわけではない。
そして、多分、たった一人知っている男のせいで、彼女はこんなにも自分に無頓着な女の子になってしまったのではないのだろうか。
夜雨の手をつかんだまま、そう思った。
それは、つらいことなんじゃないのか。
彼女の顔は無表情なままである。自分を押し殺しているようでも、我慢しているようでもない。――ただ、機械的なのだ。
「さわっても、いいよ」
腰掛けたままの晴嵐を見下ろして彼女は静かに言った。
無防備だな。
人形のような夜雨の表情を見ながら晴嵐は思った。無防備だけど体中を硬い殻で覆っている。近づけるように見えて、誰にも触れさせない。そんな硬さを、彼女はまとっていた。
晴嵐は皆実の手をつかんだまま立ち上がり、彼女を引き寄せて抱きしめた。耳元で皆実が息を呑むのが感じられた。
「なんでそんなに自分自身に無頓着なの?もっと自分を大事にしなよ」
「大事にしてるけど」
「してない。自分のことどうでもいいって思ってるでしょ。そんなふうに自分を粗末に扱うの、よくない」
「私、自分を粗末に扱っている?」
「扱っている。行動に感情が伴っていない。それって、自分の感情を切り捨ててるってことだろ?それは自分を放棄してることだとオレは思うよ」
「……そうかもしれないな。私は私が嫌いだもの」
夜雨は晴嵐から身をはなし、ワンピースのボタンを留めた。その指先が微かに震えていることに晴嵐は気がついた。
彼女にとって他人に一番気づかれたくない事を指摘してしまったのかもしれない。気づかれたくないから、わざと地味な格好をして目立たないようにしていたのかも知れない。
自分の内側を誰にも見られないように、気づかれないようにして。
だが、晴嵐は彼女に言ったことを後悔していなかった。
人それぞれ生き方はあるだろう。だけど、こんなふうに自分自身の存在を否定するような生き方は好きじゃない。
他人に否定され生きてきたから、自分の存在価値なんてないのだと思うことがどんなにつらいことかよく分かっている。
小さいころから、両親がいないことで周囲の子供たちに後ろ指をさされてきた。大人たちは両親に捨てられた晴嵐を憐れみ、そのくせ晴嵐が何かしでかすとそれを両親のいないせいにして蔑んだ。
だから、友達もいなかった。晴嵐の味方は祖母しかいなかったのである。どんな状況においても、祖母が晴嵐を励まし元気づけてくれたから、卑屈にならずに前向きに生きてこられたのである。
だが、皆実夜雨はどうなのだろう。
自分が嫌いなどと自分で自分を否定してしまうのは、自分を許せないことがあるからなのだろうか。
それとも、何かの理由で、自分の存在意義を見失ってしまったのだろうか。
でも、存在意義なんてそんなたいそうなものは、晴嵐にだってはっきりと分かっているわけではない。ただ、どうせ生きていかなきゃならないのなら、楽しくありたいと、やりたい事をやりたいと思っている。
「ごめん、もう帰る」
夜雨はテーブルの上の本と床に置かれた自分のバッグを取り上げた。
「皆実さん、ここに来たいときはいつでもおいでよ。雨でサッカー部の練習が休みになるまで待ってなくても、言ってくれれば、オレ、家に戻ってるから」
「気がついていたんだ」
「なんとなくね。もっとおいしい紅茶を用意しておくよ」
「……今度はジャスミン茶がいい」
現金だな。――でも、そのくらいの方がいい。
彼女はちょっと笑って出て行った。
なんとなく気が滅入ってしまったので、久しぶりにママの店に顔を出すことにした。開店直後なのと、雨のせいか客足は乏しい。
晴嵐がカウンターのいつもの席に座って、コックの中さんの料理を待っていると、ミチルがやってきた。
「あらあら、こんなところに悩める青少年がいるわ」
「何だよ、その悩めるって」
「この前同じクラスのおさげちゃんのことで悩んでいたじゃない」
「別に悩んでなんかいないよ。不思議だなあって話をしていただけじゃないか」
「そうだったっけ?」
ミチルは手にしていたグラスを置いて晴嵐の隣に腰をおろした。客の相手もしていないのに、もうお酒を飲んでいるらしい。十年物のウイスキーも、ミチルにかかればただの水と変わらない。
可愛らしさ演出のためにお酒に弱いふりをするお姉様が多い中、ミチルはその酒豪っぷりを隠しもせずに見事に発揮している。それが、客受けのよさにもつながってもいるのだが、高い酒をガッパガッパのむホステスを指名するからには、よほど財布の厚い客に違いない。
「晴ちゃん、学校はどう?」
中さんのお手製シチュー(やっぱり山盛り)をママがいそいそと運んできて晴嵐の前に置いた。その匂いに誘われて、ペコペコのお腹がさらにキュルッと鳴る。
「普通だよ。ママが心配しなくても大丈夫」
「まあ。これでも一応保護者なんだからね。心配くらいしたっていいじゃない」
そうだった。名目上は晴嵐の母親の妹、つまり叔母として現在の晴嵐の保護者ということになっている。
「大丈夫だって」
「もう、冷めた子ね」
ママはちょっとむくれてみせた。世話好きのママは、自分が誰かの保護者代わりになれるのが嬉しくて仕方ないのだ。子供好きなのに、自分の子供が産めない、そのジレンマもそこにはあるのかもしれない。
だから、晴嵐は必要以上にママに甘えないようにしている。彼女のことは好きだが、親子ごっこをするほど晴嵐は子供でもないのだ。




