第11話
晴嵐の隣で、ミチルがカラカラと氷を鳴らしながらグラスを空にし、不意に言った。
「そういえば、中学二年生のこの時期って、三者面談とかあるんじゃないの?」
ミチル、余計なことを!
しかし、遅かった。とたんにママが嬉しそうにカウンター越しに身を乗り出してきた。
「三者面談って、先生と生徒とその親で話をするやつでしょ?晴ちゃん、そんなのがあるの?」
ああ……これは本気だ。やる気のオーラが見える。
「あるけど、ママは来る必要ないから」
「どうしてよ。それって、大事なことなんでしょう?」
「別にたいしたことじゃないよ。仕事で来られないって言っておくから」
「来て貰えばいいじゃない」
ミチルが横からさらに余計な口出しをしてきたので、晴嵐は横目で睨んでやった。
「本当に大丈夫。家での様子とか聞かれて、ちぐはぐなこと言ったら余計に怪しまれるでしょ」
「そんなことないわよ。でも、晴ちゃんがそう言うならやめる」
ちょっとしょんぼりした顔でママが言った。
やれやれ。晴嵐は胸をなでおろしてちょっと冷めてしまったシチューに口をつけた。
お客に呼ばれてママがいなくなった隙に、ミチルが晴嵐の脇を肘で小突いて小声で言った。
「ママ、本気だったね」
「ミチルが余計なこと言うからだよ」
「でもさ、保護者が一度も顔を見せないっていうのもやばいんじゃないの?特に晴君の場合は事情が事情だから、先生も敏感になっているかもよ?」
「事情が事情だから、腫れ物あつかいだよ」
なるほど、とミチルは納得したように頷いた。
叔母とはそれなりにやっていけているが、自分のことで彼女をわずらわしたくはない、というようなことを晴嵐はそれとなく担任の菊川に匂わせている。まあ、鈍感な彼のことだから、どこまで察しているのかは怪しいのだが。
「で、晴君の前の席のおさげちゃん、やっぱり大人な女の子だったの?それともただのダサ子ちゃん?」
「よく覚えているね」
「だって、晴君があんな風に女の子のこと気にするなんて珍しいじゃない」
「そうだっけ?」
晴嵐は最後の一口を食べ終わると、綺麗になったお皿をカウンターの向こうのバーテンダーに渡した。
「ごちそうさまでした。中さんにおいしかったって言っておいて下さい。」
半年くらい前からここで働き始めたバーテンダーは、笑いながらそれを受け取ると、奥に消えていった。彼はミチルと同じ歳で、大学に通いながらアルバイトをしているらしい。あまり話したことはないが、どうやらミチルのお気に入りらしい。
「ミチルの言うとおり、ムシよけだったよ」
「ほら、ごらんなさい」
「でも、それは男避けだけじゃなかった。誰とも深く関わらないための予防線みたいだった」
「じゃあ、大人な女って訳じゃないんだ。ただの内気な子ってわけね」
「いや……大人だったよ。あのムシよけも、それと関係してる気がする」
ミチルが驚いたように晴嵐を見た。
「晴君、まさか彼女と……」
「そのまさか。……寝た。成り行きだったけど」
「成り行きって……中学生のすることじゃないわね」
ため息混じりなミチルの声は、それでもどこか楽しげである。セックスに年齢は関係ないというのがミチルの持論なのだ。年齢ではなく、気持ちだと彼女はいつも言っている。その通りだと晴嵐も思う。
気持ち、感情、精神。
だけど、セックスをするのは肉体だ。どれかだけでは、きっと駄目なのだと思う。
だから、晴嵐はそのどちらも大事にしている。互いに割り切っている場合もあるが、皆実夜雨の場合はそうではないと感じていた。
「どういう成り行きかは知らないけど、それでハイ終わりって訳にはいかなかったのね?」
「どうしてわかるの?」
「歳と経験の差よ。そういう顔してるもの」
思わず晴嵐は自分の頬をなでた。ミチルに読まれてしまうとは、まだまだ修行が足りないのかな。だけど、ミチルはこういうことには動物並の鋭さをもっている。人の顔色を読むのがうまいのだ。
「―――囲い慣らされた鳥」
「なに、それ」
「そう言ったんだ、彼女。籠の外があることすら知らなかった囲い慣らされた鳥、って」
「ずいぶん抽象的な表現ね」
グラスに新しい酒を注ぎながらミチルは思案気な表情を見せた。そういう表情をしている時のミチルは理知的で、すごく綺麗だと思う。
「何かの間違いで男に生まれてきちゃったのよね、私」と、冗談めかして笑うことがあるけれど、晴嵐は案外その通りなのかもしれないと思っていた。
「何かにとらわれているってことなのかな。逃げ出したいのに逃げ出せない」
「なにから?」
「さあ、そこまでは分からない。それは、いつも彼女を見てる晴君の方が分かるんじゃないの?」
晴嵐はゆるゆると首を振った。毎日見ているからといって、皆実の心の内側まで見えるわけではない。むしろその内面は、深い闇に包まれてうかがうことすらできないように思える。
彼女の持つ闇の向こうに何があるのか晴嵐には分からない。だけど、人はみな、他人には見せられない闇を何かしら抱えているものだと晴嵐は思っている。
晴嵐にだってそれはある。ミチルにもママにも、死んだ祖母や父親、母親にだって存在しうるものだ。
何でもかんでもあけすけにしてしまえるほど、人は強くはない。ただ、その闇をどのようにして他人の目から隠すか、それは人それぞれなのだ。
戸棚の奥にしまいこんで、何の悩みもない楽天家を演じている人もいれば、うまく裏表を使って、自分を陰のある人間に見せている人もいる。
皆実夜雨の場合は、自分の存在を目立たせないようにして、他人と一線を引くことでそれを守っている。
彼女がとらわれている籠というのは、いったい何なのだろう。
「囲い慣らされた鳥」
そう呟いたときの彼女の表情は、ひどく冷たかった。
だけど、同時に自分に似ているとも思った。
引き取られた親戚の家で疎まれながらすごしたあの期間は、確かに自由のない籠の中の鳥だった。かろうじて祖母が支えていてくれた晴嵐の存在価値も、心やすまる場所もそこにはなかった。
晴嵐は、あの惨めで苦しい籠の中で飼い慣らされるのを拒んだ。だからあの家を飛び出したのだ。
日付が変わる寸前に戻ってきた部屋の中には、昼間、夜雨が残していったあの甘い匂いはもう残っていなかった。
本を読み終わったころにまた雨が降れば、彼女はやってくるだろうか。それとももう、ここに来ることはないだろうか。
柔らかなタオルケットにくるまって晴嵐はうとうと考えた。
今日、晴嵐が覗きかけた夜雨の闇は、もしかしたら一番触れられたくない彼女の傷なのかもしれない。暗くて周りが見えないから、そこに傷があって血が流れていることに誰も気がつかないのだ。
ボタンを留める手が震えていたのは、きっと晴嵐に傷口を触れられて彼女が叫び声をあげていたからに違いない。
そんなことを思いながら、晴嵐は眠りに落ちた
翌日も雨だった。
朝からしとしと降り続き、放課後になってもやむ気配をみせない。案の定、ホームルーム前に掲示板を見にいった吉中が嬉しそうに戻ってきた。
「今日も自主トレだってさ!」
「この雨じゃね。今日も体育館、使わせてもらえなかったんだ」
晴嵐がそう言った時、菊川先生が教室に入ってきた。
「三者面談の用紙を持ってきているものは出すように」
忘れていた。晴嵐は先生と目を合わせないようにちょっと身を縮めた。
ママにはああ言ったが、先生は晴嵐の家での様子を聞きたいので、ぜひ叔母さんに来てもらえないかと言ってきていた。
それはそうだろう。晴嵐を引き取った叔母と名乗る人物と、彼はただの一度も顔を合わせていない。それどころか電話で話すらしていないのだ。担任としては一度ちゃんと会って話がしたいと思うのは当然であろう。
晴嵐はちょっと憂鬱になった。




