第12話
ホームルームが終わると同時に、晴嵐は帰り支度をしている夜雨の背中に声をかけた。
「皆実さん」
彼女が振り向くのに一呼吸あった。
身構えられたかな。そう思ったが、振り向いた夜雨はいつもの彼女だった。
「なに?」
「バニラ・ティー飲んだことある?」
「……ない」
「バニラの香りがする紅茶。甘い香りがしておいしいんだ」
「それが何?」
「昨日もらったんだ。よかったら今日、飲みにおいでよ」
「今日って……私――」
「じゃあね、待ってるよ」
彼女の返事を聞かずに、晴嵐は教室を出た。来るかどうかは問題じゃない。――いや、本当は来てほしい。ただ、自分が暮らすあの自由な空間は、いつでも彼女に開かれているのだと、伝えたかった。
「相楽、今日ゲーセン行くだろ?」
後ろから吉中が追いついてきて晴嵐の首に腕を回した。他の奴らからは、塾とかで振られたらしい。
吉中は、サッカーの特待で高校に行くから大丈夫だと、塾へ行けとうるさい親を適当に言いくるめているらしい。
お気楽なヤツだ。吉中の技術は特待で高校に行けるほどのものではない。あれで行けたら他の選手に申し訳ないではないかと思う。
「オレ、今日用事あるから。悪いな、吉中」
「えー!お前、最近付き合い悪いぞ。もしかして、彼女でもできたとか?」
「そんなんじゃないよ。叔母さんに頼まれ事されたんだ」
晴嵐がそう言うと、吉中はバツが悪そうに晴嵐から手を離した。彼なりに晴嵐の身の上は気を使うところらしい。
普段はそんなことおくびにも出さないが、吉中が自分の家族の会話をまったくしないことに晴嵐は気がついている。そういう不器用なところがいいヤツなのだ。
「また今度な」
ちょっとしょんぼりしている吉中は可哀想だったが、どうせ明日には忘れている。それよりも、彼女が本当に来たときのためにお茶の準備をしておくことの方が重要なのだ。
オレってなんてマメな男なんだ。
そう思いながら晴嵐は雨の中を急いだ。
しかし、夜雨はなかなかやってこなかった。
今日は家庭教師の日なのだろうか。
数学の問題集を広げてだらだらと問題を解きながら、晴嵐は薄暗くなってきた外の風景をぼんやりと眺めた。
この部屋で誰かを待つなんて、初めてだった。なんだか不思議な気持ちだった。
もう、彼女は来ないだろうとふんで、ベッドの中で読む本を選んでいる時、玄関のチャイムが鳴った。
「遅くなってごめんなさい」
出迎えた晴嵐に向かって、夜雨は大きな荷物を抱えたまま静かにそう言った。
雨の中を急いできたのか、おさげをほどいて長くたらした髪に水滴がたくさんついている。
「来ないかと思ってた」
夜雨にタオルを渡して晴嵐は言った。
「今日は親が旅行でいないの」
「まさかその荷物、お泊りセット?」
「ちがうわよ」
冷静にそう答えて、彼女は大きなカバンを開けた。
「どうせだから一緒にご飯食べようと思って、材料を持ってきたの」
「……肉じゃが?」
材料を見て晴嵐がポツリと呟くと、夜雨はそう、と頷いた。
「この前の調理実習で作ったから、できるかと思って。嫌いだった?」
「好きだよ。皆実さんがつくるの?」
「この前食べさせてもらったから。でも、相楽君の腕には及ばないと思うけど」
「そんなことないでしょ。オレも手伝う」
晴嵐がナベとか包丁などを用意している間、夜雨は材料を取り出し、テーブルに並べていた。
「皆実さんは家でお母さんの手伝いとかしているの?」
「あまりしない」
皮むき器でジャガイモの皮を剥きながら夜雨は答えた。その表情は真剣である。しかもずいぶん厚剥きだ。
危なっかしい手つきだな、と晴嵐は思った。けれど、そんなふうに真剣な顔でジャガイモの皮を剥いている皆実が、なんだか可愛らしくておかしかった。
「なに笑っているの?」
「なんでもない。オレはニンジン切ってるね」
開け放した窓から、雨の匂いが部屋の中にしみ込んでいる。
――ああ、秋の匂いだ。
夏の熱気が引いて、空気に冷涼さと透明感が出てくるこの季節が、晴嵐は一番好きだ。
わびしさを感じるという人もいるけれど、凛とした空気は、暑さでだらけていた体を引き締めてくれる。はるか上空に広がるいわし雲は、見ていて飽きることがない。
首筋を吹き抜ける風にシャツの襟をたてるこの季節は、なんだか心を洗ってくれるみたいだ。
今日みたいな雨の日もあるが、それでも真夏のような蒸し暑さはなく、むしろ雨の中を抜けてくる風が涼しくて気持ちがいい。
ふと、晴嵐は、去年の今ごろはまだ祖母は生きていたのだなと思い出していた。
祖母が亡くなってからまだ半年しか経っていない。だけど、生きていた時の祖母の顔を晴嵐はもう鮮やかに思い出せなくなっていた。
十四年間、毎日見ていたのに。晴嵐はちょっと申し訳ない気持ちになっていた。
まだ半年しか経っていない。けれど、晴嵐の時間は止まってくれない。新しくやってくる日常の中で、生活を満たしていた祖母との時間は、いつの間にか思い出へ変わってしまっていた。
そのことに気がついて、胸の奥が少し鈍く沈んだ。
部屋は引っ越してしまったけど、祖母が生前使っていた食器やタオルや本、家具、そういった物から祖母の気配を感じ取ることができる。
歳のわりにはっきりとした声とか、仕草とかを克明に思い出すことができるのに、肉体としての祖母の姿を思い出そうとすると、なんだかぼやけてしまう。
今思い出すことができるのは、棺の中でたくさんの花に囲まれて目を閉じている顔だけだ。
オレは、ひどい孫だな。
一番身近で、一番大切な人だったのに、祖母の存在はもう晴嵐の日常の中では思い出となってしまっている。
だけど、それは悲しいと思う一方で、それでも自分は前へ進めているんだと少し安心もしていた。唯一の肉親の死で、晴嵐がいつまでも立ち止まって進めないでいたら、それこそ祖母は「なに弱気になっているんだ」と激怒するに違いない。
「相楽君、どうしたの」
夜雨の声に、晴嵐は自分が包丁を片手にボーっとしていたことに気がついた。よく見ると、ニンジンを切っている途中で手が止まっている。
「なんでもないよ」
彼女はジャガイモをすでに切り終わっていて、晴嵐が担当していたニンジンに手をかけていた。
にっこり笑った晴嵐を見て、夜雨は形のよい眉をわずかに寄せた。
「そう?」
「ちょっとね、思い出していたんだ。去年の今ごろ何をしていたんだろうって。皆実さんは覚えている?」
「去年の今ごろ?」
皆実は小首をかしげるように考えた。黒目がちの大きな切れ長の瞳が宙をにらんでいる。
やっぱり彼女は美人だ。その表情がふっとゆがんだように見えた。
「……覚えていない」
やがて夜雨はぼそっとそう言った。
嘘だと思った。何かを思い出して、だけどそれは言いたくないことなのだと晴嵐は直感した。
「去年はまだ、ばあちゃんが生きていたんだ。紅葉を見るのが好きで、この時期になるとあちこち出かけてた。オレも時々付き合わされて、電車で日帰りの旅行に行ったこともあった。なんか、そういうことって不意に思い出しちゃうんだな」
「そうね、いいことも悪いことも、何かの拍子に思い出してしまうものね。相楽君も紅葉見るの好きなの?」
「見るのが好きというか、そういう場所を散歩するのは好きだな。気持ちいいから」
「なんか、相楽君が言うと、風情があるっていうよりも子犬が転がるように散歩しているっていう感じ」
「なんかそれって、花より団子って言っているみたいだよ」
「近いわね」
夜雨が笑った。
だから、なんで学校ではそういう顔をしないんだろう。もったいない。
鋼鉄の鎧を全身にまとったようなこの少女は、学校という集団の中では決してスキを見せないのだ。だからといって、晴嵐と二人でいるときはスキだらけかといえばそういうわけでもない。
ただ、あのピリッとした、近寄りがたい雰囲気がないのは確かだ。なんだか、すごく人見知りで、すごく高貴で、気分屋で、プライドの高い猫みたいだ。




