第6話
晴嵐が声をかけるよりも先に、夜雨が気づいてこちらに顔を向けた。
「相楽君……」
「皆実さんもよくこの本屋に来るの?」
「ううん。初めて。ちょっと寄ってみただけ」
そう言う彼女の片手には、二冊の文庫本が抱えられていた。
「その本、両方とも持ってるけど、貸そうか?」
夜雨は驚いたように晴嵐を見た。無理もない。前と後ろの席とはいってもほとんど口をきいたことがないのだ。ましてものを貸し借りするような仲でもない。
「いいの?」
「いいよ。お金の節約になるでしょ?」
晴嵐の言葉に、夜雨は笑った。
――笑うとこんなにかわいい。
新たな発見に、晴嵐は嬉しくなった。
「月曜日に学校に持って行ってもいいけど、よかったら今から来る?他にも貸せる本があるかもしれない」
そう言ってから、晴嵐はふと考えた。彼女もかなり本を読み込んでいる。貸せるものがなかったら悪いかな。
しかし、予想に反して夜雨は嬉しそうに言った。
「いいの?これ、明日ゆっくり読もうと思っていたから、今日借りられたらうれしい」
意外なほど素直な反応だった。学校では見せない彼女の顔を見られることが、晴嵐には妙に嬉しかった。
なんで学校ではこんな顔を見せないんだろう。
「じゃあちょっと待ってて。さっき皆実さんに丸印つけてもらった本を買ってくるから」
そう言って晴嵐は棚の上のほうに見つけた図書委員おすすめの本を取った。
「それを買いにきたの?」
「そう。オレも明日ゆっくり読書でもしようと思って」
「相楽君って、本好きなんだ」
「本なんて読まないと思ってた?」
「まあね」
これまた素直な。
それから夜雨は、今さら気づいたように晴嵐をじっと見つめた。
「相楽君の家って、この近所なの?」
「歩いて五分くらい。平気?」
「五分なんて問題ないけど……」
夜雨は少し困ったように言いよどんだ。晴嵐に続いて店を出ても、なかなか歩き出そうとしない。晴嵐は数歩先に出て皆実がついてくるのを待った。
「どうしたの?」
「それがね、ここに来る途中で傘が壊れたの。この近くにコンビニない?」
なるほど。晴嵐は内心うなずいた。だから彼女はびしょぬれなのだ。きっとこの本屋にも雨宿りついでに立ち寄ったに違いない。
「すぐ近くにはないんだ。もうそんなに雨強くないし、嫌じゃなかったら一緒に入っていこう。ビニル傘でいいなら家にあるからあげる」
晴嵐は夜雨のところまで戻って彼女を傘の中に入れてあげた。安物のビニル傘だが、割と大きいので二人で入ってもそんなに濡れないだろう。
「相楽君がこんなに親切な人だったなんてちょっと意外」
晴嵐と並んで歩き出しながら彼女は言った。
「女性には紳士的にって、死んだばあちゃんによく言われてた。オレもそう思うけど、知らない人ならともかく、同級生の女の子が傘がなくて困ってるんだから、一緒に傘に入るくらい、大したことないと思うけど」
「それができない人もいるのよ。できないというか、考えもしない人がね」
切り捨てるような言い方に、晴嵐はおやっと思った。そういう人が近くにいるのだろうか。
しかし、夜雨は凛とした横顔を見せたまま、それ以上を語ろうとしなかった。
まだ半袖の季節とはいえ、朝から雨が降り続いていたので今日はずいぶんと涼しい日だった。そのせいか、傘が壊れてびしょ濡れになった夜雨は、晴嵐の部屋に着くころには小さなくしゃみを一つ二つして寒そうにしていた。
「皆実さん、とりあえず着替えた方がいいよ。アイロンかけたら制服も乾くと思うし」
晴嵐はタオルと一緒に自分のシャツとジャージを夜雨に渡した。彼女が着ている制服の白いシャツはかなり湿っていて、彼女の肌にぴったり張り付いている。その下から彼女の白い肌と薄いピンク色のブラジャーが透けて見えていて、晴嵐はそれを見ないように気をつけながら脱衣場まで案内した。
女の子の裸は見たことがあるけれど、濡れたシャツ越しに肌が透ける光景は妙に生々しくて、晴嵐はひどく目のやり場に困った。まあ、当の本人が変に恥ずかしがっていないのがせめてもの救いだ。
「ありがとう」
そう言って夜雨が濡れたおさげをほどき始めたので、晴嵐は慌ててドアを閉めた。
彼女が着替えている間に晴嵐はお湯を沸かしてお茶を入れることにした。
皆実さんは、なに飲むかな。
ジュースなんて気のきいたものはこの部屋の冷蔵庫にはない。その代わり、コーヒーや紅茶、緑茶の類はママが頻繁にくれるのでかなり高級なものがそろっている。
お茶は心を優雅にしてくれるのよ、というだけあって、ママのお茶へのこだわりはかなりのものなのだ。
戸棚から黒い缶にはいった紅茶を取り出したところへ、ちょうど夜雨が脱衣場から出てきてリビングに入ってきた。
「皆実さん、熱い紅茶飲む?」
「飲む。 相楽君、ハンガー借りていい?」
「いいけど、その前にアイロンかけたら?奥に用意してる」
晴嵐のシャツもジャージも皆実にジャストサイズだった。彼女は晴嵐と身長がほとんど変わらない。話をする時も、視線をほんの一センチ下げればよいだけなのだ。
「ありがとう」
そう言いながら、夜雨はぐるっと部屋の中を見回した。
「なに?」
「ずいぶん殺風景な部屋だなって。家族と暮らしていると、色々生活感でるでしょう?相楽君の叔母さんって、綺麗好きなんだ」
彼女の口ぶりから察するに、晴嵐が叔母の家に厄介になっている話は知っているらしい。
「家族と暮らしている部屋に見えない?」
「見えない。どちらかというと、一人暮らしの部屋。物も少ないし」
「皆実さんて、なかなか鋭いね」
夜雨の前にいれたての紅茶のカップを置いて晴嵐は苦笑した。ちょっと濃いめに入れた紅茶の香りが部屋中に漂っていてホッとする。
夜雨は束の間けげんな顔をしていたが、やがて思い当たったように晴嵐の顔を見た。
「え?もしかして、本当に一人暮らしなの?」
「うん、そう。オレ、天涯孤独なんだ」
しかし、彼女はたいして驚いた様子も見せなかった。それどころか、ちょっと小首をかしげながら納得したように頷いた。
「だから時々シャツに変なシワがはいっているんだ……」
バレてる。
しかし、ちょっと論点が違うぞ、皆実さん。それに突っ込むべき点は他にあるだろう。
だけど、変にうらやましがったり同情的にならないところが彼女らしかった。
夜雨がそのまま制服にアイロンをかけ始めたので、晴嵐は隣の部屋の本棚からさっき本屋で彼女が手にしていた本を二冊取り出してきた。
「ここに置いておくから」
「ありがとう」
「そういえば、お腹すいてない?」
今日は土曜日なのだが、学校行事で半日授業の日だった。
「なんか作るけど食べる?」
「相楽君がつくるの?」
「オレ、うまいよ。ばあちゃん仕込みだから」
そう言うと、夜雨はちょっと笑った。一日に何度も彼女の笑顔を見るのなんて初めてだ。ここが学校ではないからか、彼女はいつもの彼女とは違って見える。
「じゃあ、食べる。実はお腹すいてる……」
「簡単にパスタね。好き嫌いは?」
「レーズンとらっきょう以外なら問題なし」
「どっちもパスタとは無縁だ」
晴嵐は大きなナベを取り出して火にかけた。
誰かに食事をつくるなんて久しぶりだ。――祖母が亡くなって以来になる。
よく考えれば、この部屋に誰かを招き入れたのは初めてだった。




